その家はゆるやかな滅びの途にあった。緩慢な動きで女の指先が首を絞めるのに気づかぬふりをするように、その爪が皮膚に食い込む痛みを、細い指先が確かに気管を押し潰す息苦しさを、感じぬはずもなかろうに、住人はみな一様に穏やかな微笑を浮かべ、それが殊更にその家の滅亡を強調していた。
 今思えば、家人はみなもはや病んでいたのである。あの奇妙に穏やかな、真っ白な光に包まれた朝食の光景を彼は忘れることができぬ。あの造りものめいた完璧な家族の談笑の中に、確かに滅びは存在した。ひょっとすると、あの微笑、あの穏やかさこそが、それを助長していたのかもしれない。真っ白な光に満ちた食卓。真珠の首飾りをかけて給仕する母親と、新聞を広げ子供らの会話に時折頷く厳格な父親。もそもそと口を動かす老婦人に、小鳥のように明るく囀る幼い兄妹。真っ白な鳩の羽の中にあるかのように、部屋には窓から燦燦と、朝の光が満ちていた。
 それが初めて、彼が触れた家庭というコミュニティだった。彼は最初から、それが限りなくよくできた贋作であることは知っていたが、どの家庭も”こう“なのだと思い込んですらいた。やがてその認識が間違いであると気付きだした頃になって―――彼はこの家のさらなる奇妙さ、不自然さに気がついたのだ。
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 五月の晴れた朝だった。彼はその扉を叩いた。大きく一度、二度。遠くの方で返事をする声があった。彼はしばらく、玄関先で姿勢を正して待った。特に意識してそうしたわけではなく、彼の背は大概王者のようにまっすぐと、優雅に起立している。やがて扉がうっすらと開いて、その隙間から、たっぷりとした量感の婦人が顔を覗かせた。古風で古典的な服装は、使用人のものらしい簡素な黒いドレスに白い前掛けをした姿であった。初老に差し掛かった女の顔には、剣呑な色がチラと覗いた。
「…どちら様でございましょう?」
「クロロ=ルシルフルと申しますが。」
 人好きのする(もちろん彼はそれを自覚していた。)微笑を控えめに口端に乗せて、彼はあらかじめ知られているはずの名前を発した。それは魔法のようにすぐさま効果を表し、言い終わるか終わらないかのうちに、老女は喜色を深い皺から滲み出させるようにして大きく扉を開いて彼を出迎えたのである。
「まあまあそれはとんだ失礼を!お待ち申し上げておりましたよ、」
 さあ奥へ、と促しながら、彼女の目が抜け目なく自らを観察しているのを彼は理解した上で、その眼鏡に適うように殊更に優雅に振舞った。「まあまさかこんなお若い方だなんて。」だの「旦那様も奥さまもお待ちになっておりました、」「お子様たちもそれはもう楽しみにしておられて、」だのという意味のないようで意味深げな、なんということはないお喋りがつらつらとその乾いた唇から紡ぎだされてゆく。彼はそれに、いかにも分別のある青年らしく、頷き、時折笑顔で返事をかえした。外観からは予想もつかないほど、室内の廊下は暗く、朝であるというのに蝋燭が灯されてなお暗い。幾つものドアを通り過ぎて、ようやく廊下の突き当たりのドアを、皺の刻まれた手のひらが叩く。
「旦那様、奥さま。家庭教師の先生がお着きになりました!」
 声様までしわがれて、どこか老雌鶏を彷彿とさせる響きだった。

「お通ししなさい。」

 どこか遠く、深いところから響くような声が、それに答えた。家主の声だろうと彼は見当をつけ、その響きのどこか裁判官のような厳粛な音色に密かに感心する。梟の持つ響きで話す人間の声だった。
 老女中がそれに応えて、サッと恭しく扉を開ける。さあどうぞ、と囁くような声音ですら、やはり鶏の姦しさがあった。彼は扉の隙間から射し込んできた白い光に、一瞬思わず目を瞑る。それほど暗い廊下と、扉の向こうの室内とは明暗の差があった。ストロボをたかれたような、錯覚を彼が持つほどに、その扉の向こうは明るいらしかった。
「失礼します。」
 眩しさに目を細めながら、彼は一歩をそのドアの向こう側へと踏み出す。
 そうして彼は、真っ白な朝の光の中で、食事をする美しい一家と対面したのである。先ほどまでの廊下の暗さも忘れて、彼はだんだんとその明るさに慣れた瞳を見張った。ほっそりとして色白の、美しい白金髪の婦人が席を立ちながら軽く会釈する。
「まあ先生、遠いところ遥々と。朝食の途中で申し訳ございません。本当に、来ていただけて光栄ですわ。」
 容姿に相応しく、彼女は梢で囀るカナリアのような声をしていた。フルートの響きだった。
 彼は偽造された自らの履歴書のことを一瞬考えた。金さえあればどんな経歴でも、買うことはできた。そして彼はもちろんその買った経歴以上の、パフォーマンスをすることがもちろんできたのである。