「こちらこそ、私のような若輩者を雇っていただいて光栄です。」
 深ぶかと、しかし自然に、かつ優雅に礼を返しながら、彼はさっと食卓を囲む人間を確認する。
 美しい女主人に、それからその隣、一番奥に座っている男が、彼女の良人でありこの家の主だろう。その横に白髪の、品の良さそうな老婦人。そして母親と同じプラチナブロンドのスラリとして利発そうな少年―――とはいっても彼とそう年は変わるまい―――それからこちらは父親譲りだ、黒い髪のまだあどけない、しかし花のように美しい少女。口元が母親にそっくりだ。五人。顔を上げるとき、興味深そうに自らを見ている子供二人の眼差しを受けて、彼は少し、くつりと口端を持ち上げてみる。それにさっと兄妹は目を合わせてくすくすと肩を小さく揺らして笑った。仲が良いことが窺える。
「ようこそ、先生。朝食の席についたままなのをお許しください。」
 主人がさきほどドア越しに聴いたのと同じ、低い声を彼に向って発する。この家の主は、痩身で、しかしスーツの上からでもわかる逞しい肩の堂々とした男性だった。立派な家と、使用人、美しい妻と、利発そうな子供たち。世間一般の絵に描いたような幸福それらすべてを背負って立つ責任とその家長たる威厳、それらに起因する自信が、彼をこの王国の王者たらしめていた。ひとつひとつの動作に、男としての―――夫と、父親としての矜持が透けて見えるようだった。しかし不思議と、クロロはそれに不快を覚えなかった。家主は満ち足りていた。この家と家族に、満ち足りているようだった。
「ずいぶん早くお着きになったのですね。」
 立ち上がった家主に握手を求められ、それに答えながらクロロはかすかに頭を下げる。
「ええ、汽車が思ったより早く着いたものですから。」
「朝食はもう?」
 少し片方眉を上げて、『緊張する若者を手助けするように少しおどけて』そう尋ねた主に、クロロはわざとらしく、目を丸くして答える。
「実はまだなんです!」
 それに明るい笑い声が起きて、すぐに女主人が「マーサ!」と涼やかな声を上げる。先ほどの老婦人が、はい奥さまとすぐさまどこからともなく現れる。
「先生にも朝食を差し上げて頂戴。」
 礼儀程度に一旦断りを入れて、案の定これから住み込みで勉強を見てもらうことになるのだからと、朝食をとることを再度勧められる。もちろん彼に断るつもりはないし、先方もそのようなことは重々承知だ。大人というのは社会的な儀礼をいくつか踏む手間がある分非効率が多いと彼は笑顔の裏で改めて考えていた。しかしそれらが不快なわけではなく、芝居を演じるような感覚でおもしろおかしい。今こうしてここにいること自体、彼には芝居なのだからなおさらだ。
 椅子がもうひとつ食卓に加えられ、温かいスープとパン、バター、サラダ、ハムエッグ、砂糖、紅茶、と次々に彼の前に皿が並べられる。すべての用意が整ったところで朝食が再開され、改めて、と家主が順番に家族を紹介し始めた。
「私はユングヴィです。そして母のフリーン。妻のフライヤ。息子のフォルセティに、娘の。」
 よろしくとそれぞれと挨拶を交わしながら、彼はやはりその息子をじっと注視する。彼とそんなに年は変わらない。だとするとこの母親は幾つなのだろうか。考えていることを読ませない瞳で、彼はひとりひとりに会釈をしてゆく。最初老婦人の青い目が、穏やかに、しかしなにか見極めようとするように彼をじっと見ていたが、それもやがて歓迎の意を表して優しく細められた。口数の少ない婦人で、それが主の母親だということは両親ふたりの態度ですぐ知れた。
「よろしく、フォルセティ。。」
 それに少年のほうがはにかむようにええと頷き、少女のほうが少し頬を赤くして下を向く。
「まあ、、ちゃんとご挨拶なさいな?」
 そう優しく促す母親に、恥ずかしそうに少女は小さな声で、「よろしくおねがいします。」と囁いた。大きな目玉がチラと彼を見てはすぐ逸らされる。兄のガラスのような透き通って少し乾いた声とは別に、妹の声は小さな鶺鴒かなにかだった。
「すみません、照れてるみたいで。」
 そうとりなすように苦笑した兄の目を見ながら、やがてその目のなかになんの信号も読みとれないことに彼は若干落胆し、それでもそれを表に出さずにニコリと微笑む。