もちろん彼は、この良家の家庭教師となるべくここへ訪れたのではなかった。彼には目的があった。その目的のためにこの家と接触をとろうと試みて、すでに一度、手痛く失敗していた。その結果、回りくどく面倒くさい手を使い、他人の戸籍を安くはない金銭を支払って買い取り、履歴書を偽造し、それに必要な証書もすべて作りあげて、彼は自らここへやってきたのだ。しかし今となってみると、それすらもすべて彼をここへ招くためであったような気がしてならない。
「…さっそく前途多難、ってか?」
与えられた居心地の良い個室で、彼は素の口調に戻って呟いた。鞄をポオンとベッドの上に放り投げ、そのまま自らも腰を下ろす。ネクタイを弛めながら、噫肩が凝ったと首を左右に何度も倒す。まったくお上品と言うのはガラに合わない。ゴキゴキと肩を鳴らしながら、彼は額にかかった黒髪を無造作に掻き上げる。その額のクロスが、意味ありげに沈黙している。
しばらくそのままで、やがて深いため息とともに体を後ろへ投げ出した彼は、持ち前の前向きさでこのふかふかのマットレスの感触を味わうことにした。とは言っても時刻はまだ午前のうちだ。朝食も終わり、仕事へ出る主人を見送ったあとで、部屋へ案内され、昼食まで荷物の整理を言い遣った。とは言っても彼の荷物は、小さな旅行鞄ひとつであるし、荷解きをするまでもないのだが、ありがたく午後までの暇を頂くことにした彼は、こうしてベッドに寝転がって、天井を眺めているのである。
真っ白だな、と思った。廊下は暗く、重たい木の色をしていたが、それ以外の部屋は、おそらくどこもここや食堂と同じに真っ白なのだろう。数年来人が棲んでいると思えないほど、シミ一つない。床の暗い木目が沈んで見えるほど、壁も天井も白かった。南に向かった窓から、すぐ真向かいにある樹の影が、緑色に写りこんでいる。
彼の部屋は二階に用意されていた。隣がフォルセティと呼ばれている少年の、その隣がでその隣が一家の主と奥方の寝室、向の部屋は物置になっていて、その隣に階段、階段を挟んで老婦人の部屋、その隣の隅があの老女中の部屋だ。一階には食堂に応接間、風呂場に客室、そして書庫と書斎、暗すぎる廊下。勉強はさっそく今日の午後から、兄の方の部屋で。
「坊っちゃん、ねえ。」
金の髪をした、もうほとんど青年であるこの家の一人息子を思い出して彼はふむと顎に手をやる。坊ちゃんと呼ぶには成長しすぎているだろうし、名前で呼んで遜色なかろう。一度ぐいと腕を伸ばしてから、勢いをつけて起きあがる。
「…やあ、」
少し微笑んでニコリと扉に目を向けてやる。
パッと隙間から覗いていた小さな顔が引っ込んで、それからもう一度、おそるおそる覗きこむ。
「なにか御用かな。勉強は昼食の後だって、さっきお母様に聞いたと思うんだけど…。」
長い黒髪が肩のあたりでさらさらと波打っている。美しい子供だなと、彼は妙に感心する。「あの、」と小さな声音は、やはり鳥の囀るようだ。母親のよりも幾分大人しいが愛らしい。
「先生は…、」
「クロロでいい。」
「クロロ、先生は、」
どうして部屋に入ってこないのだろう。恥ずかしいのだろうか。大人しい子なのだなと思いながらも、やはりこうしてひとりで新顔の家庭教師の部屋を覗きに来るあたり、好奇心旺盛な子供なのだ。額のしるしのことを思い出して、気が抜けないと思いなおす。
「いつまでここにいるの?」
今来たばかりで出ていく話か。そうははっと声に出して笑った彼に、がぱっと肩を竦めて頬を赤くする。
「どうしてそんなこと聞くんだい?」
その質問に少女は二、三度、口をぱくぱくと開きかけて、
「?」
背後から聴こえてきた声にビクリと肩を震わせる。
「なにやってるんだ?」
兄の方だった。呆れたような、しかし彼自身も好奇心を隠せないようで、わずかに開いた扉の隙間からひょっこりと顔を出す。
「あ、兄さま、あの、あのね、」
「まったく、先生はいま到着されたばかりで疲れてるんだから邪魔しちゃだめだろう。」
やはり年の離れた年長者らしく、そう妹を諭す彼はもうほとんど大人のようだ。それとの対比で、余計に小さな少女が幼く見えた。