彼がその家を訪れた初日から始まった勉強は、順調であるという他なかった。彼は教師として十二分に優秀であったし、生徒たちもまた群を抜いて優秀だった。教師などという職に就いたことなど彼にはついぞないが、彼が優れていることはやる前から分かりきっていたことであったし、食堂で受けた印象と寸分の違いなく、この兄妹は利発で優秀そのものだった。勉強の合間合間の雑談ですら、彼らの知性の高さを窺わせ、彼には良い暇潰しになった。幾ら目的のためとは言え、馬鹿で幼稚な子供のお守りはごめんだった。彼は一部の例外を除いて、知性のない人間の相手が嫌いだった。単純に疲れる。
「へえ!じゃあ先生は世界中旅を?」
「ああ。ずいぶんあちこち行ったな…美術品や骨董や…宝石なんかも結構好きでね、いろいろ見て回ったよ。」
初歩的な嘘のコツは、真実を織り交ぜることだ。経歴を偽る上で大切なのは、いかに買い取った経歴に矛盾を生まないかではない。嘘を嘘と思わせない。これに尽きる。その例として彼は本名で乗り込んできていたし、もちろん今も話している通り、世界中あちこち回っており、美術品も骨董も宝石も好きであった。あらゆる方面に長けた彼ではあるが、特にその分野にかけてぬきんでている。
さらさらと淀みなく問題を解きながら質問するフォルセティに、彼もまたその書き出される回答と、に示している古典の本文とを同時に目で追いながら返事を返していた。時折が、少女らしい控えめさで、しかし好奇心を抑えられない、といったふうにかわいらしく口を挟む。
「いいなあ。」
あまり気軽に外にも出られない、という様子の良家のお坊ちゃんには、なおさら憧れる部分があるのだろうか。目を輝かせて、未だ『見たことのない』異国に思いをはせるようにフォルセティがため息を吐く。その間も淀みなく手は動いている。難しい計算式が並んでいるが、ほぼノーミスであった。彼はそれを確認しながら、少し笑って見せる。
「君だって大人になればすぐどこへだって行けるだろう?大学はどこにするつもりなんだ?」
その問いにフォルセティは、きょとりと目を見開いてあどけなく笑って見せる。
「なに言ってるの、先生。大学なんてまだずいぶん先の話じゃない。」
「…そうかな、あっと言う間だよ?」
「まだ五年も先の話じゃないか。」
五年。その言葉を脳裏にしっかりと焼きつけながら、「そこ、間違ってる。」彼は頭の中でこの青年の年齢を逆算する。―――十三歳。指摘された間違いに本当だと納得する様子のフォルセティは、それより少なくとも五つか六つ年上に見える。
「それに家から出られるようになるかもわからないのに大学なんて先の話考えられないよ。」
少し悲しげに眉を寄せる彼は、病気がちで家から出られないのだと言う。健康そうに見受けられる頬を眺めながら、彼は静かに、「じき丈夫になるさ。」と穏やかに声をかけた。
「大学へ行ったら何の勉強がしてみたい?」
重ねてそう尋ねると、フォルセティはええー?と首を傾げながらもうれしそうに思案し始めた。はようやく終わらせた書き取りを真剣な目で読み返している。
「そうだなあ、」
一瞬彼は、少年の瞳に青い光が走ったのを見たような気がする。
「機械の勉強がしたいかな!飛行機とか…コンピュータとか。」
「コンピュータを使ったことがある?」
「ううん、父の部屋にはあるけど仕事用だから触ってはいけないって。」
残念そうに溜息を吐く彼に、そう、と答えながら彼は自らの頭の中にあるこの家の地図に、コンピュータの位置を付け加える。仕事用だというなら私室ではなく書斎だろう。できたと嬉しそうに頬を緩めてが書き取りの終わった容姿を差し出してくる。どれと受け取りながら、彼は重ねて兄に問題を提示する。それはもはや大学レベルの問題であるのだが、それを知るのはおそらくクロロだけに違いない。そしてそれを知らず、すらすらとフォルセティは答え、またも古典と言っても古代ギリシャ語だ。それをたった十二、三にしか見えない少女が書き取って訳している。
これは異常だろうか。
幼いころからそういった方面で異常だったクロロにはいまいち判断がつきかねた。ただの天才という可能性もある。しかしやはり、兄の容姿と年齢が釣り合わないことこそが、その異常の証明とも思えた。