01.


06.Listen to me_(僕の話を聞いてくれ)


 画面上の少年が告げる。その奇妙な少年は、もうずいぶん彼女の部屋に馴染んだものとなっている。画面の前で膝を抱えて座って、彼女は白いマグカップを手のひらで心許ない幼い女の子みたいに抱えていた。静かな夜だ。もう家電が奇妙に唸ることはなく、またそれが起きたとしても彼女はすぐパソコンの画面をみて困ったように笑って文句言うだろう。すべての原因はひとつだ。この小さな少年。
、迷ってるんだね?』
「…ええ。」
 そっとが頷いた無邪気そうな問いかけには、会話の対象である瀬人への好奇心に似たちょっとした悪意が滲む。楽しそうにも聞こえる響きは、他人事だからと笑い飛ばす声だ。
『なぜ?瀬人のことが嫌い?意外だなあ!まあボクとしては大歓迎だけれど。』
 だって君と瀬人が付き合いだしてもう随分でしょう?物知り顔で画面越しに、少年がにっこりと微笑む。そうだね、と苦笑しながら、彼女は空になったマグにポットを傾けた。まだ少年は楽しそうに喋っている。
 彼女がこの数ヶ月で学んだのは、形は幼い頃の彼にそっくりなこの少年が、皮肉屋で意地っ張りで素直でないかわいい子供だということだった。頭がよく、そして物事を知らない。一口マグの中身をすすって、彼女はほっと息を吐いた。画面の向こうでは、少年は仰向けに寝そべりあごを手の上に乗せて、足をブラブラさせていた。その前を機械仕掛けのおもちゃが走ってゆく。なんていうリアル。
『迷っているの?』
 デジタルな画面の向こう。そこで少年が尋ねる。とてもよく、の知る男の幼い頃に似た少年が。違うのは髪と目の色、そして中身くらいだろうか。まあつまりはほとんど違うのだけれど、それでも似ていると感じざるを得ないほど、その顔貌と雰囲気が似通っていた。名前は乃亜。画面に直接、彼は書いた。けれどもどうしてもその名前は、の口から出るとノアと言う発音になってしまう。それでも構わないよと彼は大人びた仕草で笑い、ノア、と画面に向かって呼びかけると表れた。彼が出現してから、家電はおとなしくなりを潜めている。それらは彼の、完全な配下にあるのだ。逆に彼からに用があるときは(たいていおしゃべりにつきあわされるだけなのだけれど)、家電が呼び鈴のように歌った。
「ええ、そうね。」
 不思議なものだ。彼が初めて表れたときには、悲鳴こそ上げなかったものの、驚きに気を失うかと思ったものなのに。画面越しの動きは鮮やかで、まるでリアルな人間を相手にしているようになめらかだ。なのに、彼が、ただのデータの塊だなんて、まずどこから説明を求めて、信じればいいのか。には途方もない話に思われた。瀬人辺りになら、日常の話なのかもしれなかったが、彼女にはそうだったのである。まくらの下のおばけも、角の生えた馬も、涙を流す機械人形も、葉っぱの裏の妖精も、そしてデータの塊も。みな一緒だ。遠い世界の生き物だと思ってた。
『ねえなぜ?瀬人を愛しているのではないの?やっぱり、愛だなんてそんな都合の良いものは幻?』
 嬉々として体を持ち上げた少年に、は苦笑を返す。
「まるでそうならいい、ってみたいに言うんだね。」
 それに乃亜は、そういうわけじゃないさ、と再び顎を手のひらにのせる。
『でもさ、疑ってみたくなるものだろう?愛だなんて、そんな。まやかしみたいな甘い言葉。』
 まったくこんな小さななりをしてなんて言葉を吐くんだろう。は思わず、苦笑を通りこして笑ってしまう。でも人のことは笑えないな、すぐ思い立って苦笑する。この少年に良く似た彼を、私はほんとうに、あいしてきたのかしら。浮かぶのは一つの約束。迎えに来る。それを信じた日々。それが現実になった今。約束と幼い思い出以外に、ふたりをつなぐ確かなものはあるのかしら。約束だから迎えに来たと、改めてその日彼は言った。約束だから。そこまで考えて、はあれ、と目を丸くして今度こそ声に出して笑った。少年がきょとんと目を丸くして、それにもは笑う。まったくもってそうだ、今気がついた。だってこれじゃまるで、瀬人が自分をあいしているのかよく知らないから、すねてるだけみたいじゃないの。
 ふふ、とどこか楽しそうに、彼女は立ち上がる。思えば成長してからの彼は、言葉を選ぶのがそれはそれは不器用で――もちろん愛だとかそんな言葉、馬鹿馬鹿しいと一笑こそすれ言うわけがない。を画面から見上げて、少年がなんなの突然?と口を尖らせる。自分が笑われたと思ったらしい。ごめんね、と謝りながら、はなお笑う。
「ノア、私はたぶんね、とても瀬人くんのことあいしてるのよ。」
 それに子供が、頬を赤くして少し困った顔をした。それには明るく笑ってみせた。


(20090224)















  ・



07.His Vanish_(彼は消滅した)


『やあ瀬人。久しぶりだね。』

 一瞬、海馬瀬人その人は、いままで画面を見つめていた姿勢のまま停止した。その間抜けな顔を見れたことに画面上の突然の闖入者は満足したのか愉快そうに笑い、それに彼はやっと動きを取り戻す。
「貴様は…!!」
『ああ心配しないで、それからもてなしも不要。すぐ帰るから。何もしないよ。そんな力も持っていないし。』
 子供は画面の中でえらそうに足を組んで座り、画面の前で瀬人は目を丸くしている。彼専用の開発ルームにおいて、彼は普段の数倍楽そうな格好をしており、山と積み上げられた書類と工具と何らかの部品、そしてその隣にはカップラーメン。君、そんな庶民じみたもの食べるんだねえ!と子供が場違いに感動し、それが彼の米神に青筋を立てさせる。見られた。この部屋に入った者は意ままでにいないのだ。
「…なにをしにきた。いや、なぜまだ存在している!」
 せっかちだなあ、子供は飄々と肩を竦め、瀬人はますます不機嫌な顔になる。声だけ聞けば、どちらが年上かわからないだろう。しかし実際その会話から受ける年齢の印象は、間違っていないというのだから世の中はおかしい。
『君に会うためさ。君と、君の選んだ女の子に。』
「…。」
 瀬人の頭脳が、すぐさま乃亜の言わんとするところを察して、その顔を歪める。
『いやだなあそんな怖い顔しないでよ。せっかく会いにきてやったんだから。崩壊する一瞬にプログラム組み立てるの、いくら僕でも大変だったんだよ?』
「…なにが目的だ。」

『知的好奇心。』
 答えは簡潔且つ明瞭だ。早い話出刃亀根性ではないか。瀬人の表情が嫌そうに歪む。
『まあまあそんな顔しないで。君がなぜ僕に勝ったのか。僕の興味はあくまでそこさ。その答えは君が強いからじゃない。木馬がいたからでもない。君が木馬を愛してて、木馬も君を愛してた。そして武藤遊戯や城ノ内…あいつらと君も同様だ。つまりはあいつらのいう、絆、だろう?』
 瀬人はさらに顔を歪ませる。それは何度となく彼の膝を地面につけてきた、彼の人生で嫌いな言葉ベスト3に入りそうな言葉だった。
「木馬との間にならまだしもそんな非科学的なものは認めん。虫唾が走る。」
 そう言うだろうと思ったよ、と乃亜が笑う。
『絆、ね。多分僕もそれを持っていたよ。でもきっと種類が違ったんだ。僕と父さんの間にあった絆とは違う…それを君らは持っていた。ねえ、何が違うんだろうね?僕はまだその答えを探してはいなかったんだ。だから父さんと一緒に消える一瞬に、僕は僕を作った。答えを探すために。』
 目覚めるのに大分時間はかかったけれどと、画面の上で、自分の言葉を基本的に無視しながら話を進める子供を、注意深く見やりながら瀬人が口を開く。
「なかったと言ったな。」
『ああ。耳ざといね。』
 乃亜がにっこりと笑い――噫やはりその顔は憎たらしい以外の何者でもないな、と数年前にはそっくりな顔をしていたのをよそに瀬人は心の中で忌々しく吐き捨てる。君はもう分かったかな?と歌うように子供が尋ね、彼は沈黙する。絆、自分自身を、そして彼らを強くした不可解な力。
「…。」
『僕はもうわかったよ。』
 子供の奇妙に年老いた瞳。ただのホログラムだというのにこの人間臭さと来たら嫌になる。君にはまだわからないだろう?と言外に瀬人を揶揄してからかっているのだ。だから瀬人は黙った。見た目子供の戯言に、これ以上付き合う時間はない。そんな態度をとった彼に、乃亜が年長者じみた笑顔でほほえみかけた。やっぱり少しからかうような、以前なら見られなかっただろう親しみのこもった微笑。それを視界の端で捉えて、彼はとても嫌な予感がした。そう、彼がばかにしてやまないだれかさんが、彼の弱みを見付けてここぞとばかり調子に乗った時と同じ類の。
『君のプロポーズが受け入れてもらえない原因もね。』
「なっ…!」
 予想以上だった。彼は盛大に噴出し、机についていた肘を落としかけ、それに少年が明るい笑い声を上げる。
『…また会えて嬉しいよ、瀬人。』
 少年が笑う。乃亜という子供が。彼の兄。そう。そう言って微笑う表情は、兄という単語に相応しくひどく優しく大人びて見えて、その"くだらない"錯覚に体の大きな弟のほうはフンと不愉快そうに鼻を鳴らす。その様子にますます、少年がくったくなくほほえむのだということ、知りもしないで。
『ねえ、瀬人?はかわいいね。』
 また瀬人が、噴出して今度はゴンと机に頭をぶつける。ああこれ、録画しておけば君の"友達"たちにとっても喜ばれるだろうな、乃亜が笑い、瀬人が忌々しげに歯軋りしながら顔を上げる。
「貴様、まさか、」
『大丈夫なにもしやしないさ。ちょっと話しただけ。…僕は少し君がうらやましくなった。』
 ふふ、と笑う乃亜を、まるで不思議な生き物を見るように瀬人は見る。この忌々しい偏屈な子供は、こんな風に笑ったろうか。
『瀬人。君はとてもとても偶然にしあわせだ。』
「…フン。」
 瀬人は少し目を細めていつもより弱い調子で鼻で笑った。
「そんなことは言われなくても知っている。」
 その様に乃亜は目を猫のように細めて笑う。瀬人は気づいていた。その身体がほとんどノイズが混じって、画面がもはやほとんどもとの開発中のゲーム画面に戻ろうとしていることも。
『知っているかい?瀬人。君は彼女を「それも知っている。…余計なお世話だ。」
 それはごちそうさま、と彼が笑う。なら君、どうしてイエスって言ってもらえないのか考えなくっちゃ。悪戯っぽい声も、ノイズが混じって遠くなる。
『木馬ニよ、 ろしく。僕が   消エた後 で。』
 あの子はきっと、泣くだろうから。ほとんど歪んだ画面上で、彼が笑う。流石は君の会社のセキュリティーシステム。
「うぬぼれるな。」
『…こ だけは自、惚れてイ いんじゃ   しら、っ 僕、思ウんだ   けどなア。』
「うるさい。」
『セ人、』
「…なんだ。」
『ほ とウ に会エ、てうれし、  た。』
「…。」
 乃亜の目。不思議な色をしている。海と森のごちゃまぜ。それが静かに瀬人を見つめ、一瞬ノイズがピタリ収まる。

『今度こそさよならだ。さようなら。』
 ―――ブツ。

 画面が途切れた。
「待て…!!!」
 思わず呼び止めた瀬人に、返事はない。もう一度マイクに向かって叫ぼうとして――彼は椅子に腰を下ろす。今何を言おうとした?引き止めてどうするつもりだったというのだろう。馬鹿馬鹿しい。もうすでにいない子供。ひきとめることがどんなに残酷なことか、わからないほど彼は子供でも人でなしでも、やさしくも、ない。


(20090328)
















01.

08.Rain for You_(君に降る雨)


 いつもの通り、表情のない――冷たいともとれる横顔で少し息を吐くと、瀬人はノートパソコンの画面をパタリと閉じた。廊下を走る騒がしい音がする。彼のプライベートな空間も含めるこのビルの最上階にして、こんな風に騒々しくできる人間は限られている。例えば彼の部下なら、社長の逆鱗恐ろしさに普段でも必要以上に音を立てないし、緊急時ならなおさら静かに速やかに動いた。無駄の多い動作。最上階に入ることを許された人間にしては軽い音。そんな風に条件を絞るまでもなく、彼にはそれが誰なのかわかっていた。だから今まで開いていた画面を閉じて、来るべき時に備えて呼吸を整えた。モクバ様です、と秘書が告げるのとほとんど同時に、案の定彼の弟が、息をきらせて駆け込んでくる。
「兄様!わかった!わかったよ!」
 そうだろうとも、とは言わずに、瀬人は椅子ごと、やはり感情の読めない顔のまま、弟を振り返る。
「…モクバ。いくつになったんだ。取り乱すな。」
 それに目に見えてモクバはしゅんとする。ずいぶん大きくなったように思うが、しかられて小さくなってしまうところなぞちっとも変わらない。それが良いことなのかどうなのかは、いささか瀬人には判じかねた。
「…ごめんなさい。でもそれどころじゃないんだよ兄様!ん家の電化製品の不調の理由が判ったんだぜ!?乃亜!乃亜だよ!!兄様!あいつ生きてたんだ!」
 最後の悲鳴はどちらかというのなら喜びに近かったのかもしれない。相変わらず、そんな部分も瀬人にはわかりかねた。
「…そんなことはとっくに知っている。」
 思ったよりも、彼の声は冷たく響いた。自分自身がすこし、ドキリとするくらいには。
「…えっ!」
「あのガキの残した馬鹿なプログラムだ。最後の楔ははずされた。放っておいてもじき自滅するようプログラミングされている。」
 それを調べるくらいは難しいことではなかった。乃亜は隠しもしなかった。
「そんな…!!じゃあ、じゃあ乃亜はまた死んじまうのかよ!なあ兄様!!」
「…モクバ。」
 モクバがさけぶ。初めて瀬人が、困ったように告げた。
「あれは乃亜ではない。お前の言う乃亜などというのはただの仮想現実だ。まやかしだ。昔存在した乃亜という子供の模造品だ。生きるも死ぬもあれはただの高純度のデータの結晶体だ。生きてなどいない。死ぬこともない。いいか、モクバ。俺たちは本当には、乃亜という子供に会ったことはないんだ。なぜなら俺たちが剛三郎に引き取られる前に、やつは死んでいる。」
「そ、んな…!!そんなことない!あいつは…!生きてたよ!そこにいた!例えデータでも!俺は覚えてるよあいつがいたってこと!俺たちあいつに助けられたじゃないか!」
「…あれはヴァーチャルな存在だ。」
「それの何が悪い!?あいつが望んだわけじゃない!兄様あいつをなんとか助けてやってくれよ!お願いだ!兄様!あいつ…これで死んだら死ぬのは3回目になっちまう…そんなのあんまりじゃないか!」
 泣き出しそうに、モクバが叫んだ。いいや、もう実際泣いている。彼は身近なものを弔うことに、ひどく敏感だ。育ってきた環境が、そうさせるのだ。しかしたいてい忘れがちな事実であるが、海馬瀬人その彼とて、例外ではない。しかしそれでも、あの子供は、どうしても生きてはいなかった。かと言って死んでもいない。中途半端な存在だ。瀬人にはどうしても、乃亜を生きているとは言えなかった。モクバが生きているとしか言えないのと同じに。
「人は一度しか死なない。」
 死ぬことはかなしい。そしてつらく、くるしいことでもあるだろう。そうしてそれは、ときおりとてもやさしいものにもなる。死はすべて包括する。その泥にくるまれたあたたかい眠りから、なんども機械に呼び戻される彼らの小さなままの兄に、安息はあるのだろうか?
「モクバ、」
 それは兄の声だった。社長の声ではない。
「――聞き分けなさい。」
 ひどくやさしくて、困った。モクバはその場に座って小さな頃と同じように泣き出した。瀬人はじっと、静かなまなざしだけ注いで弟を見下ろしていた。彼には弟のように、素直にそうやって、自分の感情を発露することができないし、そうしようとは思えないから。けれどやはり、そのさまは時折、どうしようもなく兄の目にはうつくしく見える。みっともないはずなのに、いとおしく思う。モクバの涙が、止まること知らないように降り続いている。その背をそっと不器用に、兄の見えない手がなぜる。
 赤い夕日がどこからともなく、照っているような錯覚を覚えて、瀬人はふと目を眇めた。さながらいつかの赤照に、心をこらすように。
 だから彼は気づかなかった。
「ノアが…消える?」
 扉の前で目を見開いたまま立ち竦む、に。


(20090404)


















01.
09.Canal_(水路)


 不思議な場所だった。どこかで水の音がする。それ以外なにも聞こえない、静かな世界。
 はいつの間にかそこにいた。見渡す限り白く、足元を水路が通っている。白い滑らかな直角な箱上の道を、さらさらと水ばかりが流れてゆく。しんとしていた。ぽつりと彼女は佇んでいる。ここはどこだ?一歩あゆみを進めるが、足音もしない。ただ、静か。確かに走っていたはずだった。なぜってとんでもない話、聞いてしまったから。早く帰らなくちゃ、帰ってあの子に会わなくっちゃって。彼の会社の長い廊下を、走っていたはずなのだ。あたりはぼんやり明るくて、太陽は見あたらなかった。晴れた日の雲の中を、歩くのはこんな感じだろうかと思う。影はうっすらとすべての方向に伸びて、弱々しい。
 仕方がないので、北も南も区別のつかないまま、気の向くままにしばらく歩くと人影を見た。背格好はの胸より少し低いくらい、細い手足。どこか見覚えのある形。少年の形だ。白い詰め襟の服。むき出しの膝。二人の候補が一瞬に頭に浮かび、そして次の瞬間には彼女はその内のひとりを選択する。

「ノア…?」
 呟いた言葉に振り返った顔は、画面越しに見慣れたもので、は妙にほっとした。をみとめた乃亜の顔も、同じようにわずか、ゆるむ。
「やあ。」
 余裕たっぷりの、優雅な挨拶だった。乃亜は水路の淵に腰掛けて、水のゆく先を見ている。どこへ流れてゆくのやら、水の行方は白くぼやけて見えやしない。
 少年に近づきながら、はついさっき聞いたドア越しの会話、思い出す。
(なあ兄様!)(最後のくびきは外された―――。)
「ノア、」
 嘘だよねぇ。消えてしまうの。死なないで。
 なんて続けようとしたのだろう。言葉は続かずに彼自身に遮られた。その見た目通りの年頃にはあるまじき微笑は穏やか。そうしてやっぱり世界中をかすかに馬鹿にしてもいる。同時に羨んでも止まないのだけど、きっと本人はそれを認めないだろう。

「ご覧よ水がゆくよ。」
 彼の視線の先には流れ続ける水路があった。水の音。少年の瞳にはその行く先が見えるのだろうか。エメラルドの虹彩に混じる不思議な紫の光はいつか画面で見たまま。は思わず黙って、乃亜の見る先を見ようと目を眇めた。やはりその先はあまりに遠く、かすみにぼやけて見えない。
「僕らここから来たんだよ。」
「…え?」
「僕らはここを通ってみんな生まれてきたんだよ。白い小部屋と小さな水路をね。」
 少し肩を竦めて乃亜は笑い、はその意図をはかりかねて曖昧に微笑んだ。なんだ君、ホログラムだとかデータだとか、嘘じゃない。こうしてここに、生きてるじゃない。言おうとした言葉はなぜだか震えて丸まって形にならずに沈んでしまった。どうしてだかしらないが、言葉にならなかったのだ。
「そうして流れに乗って、僕らは生きてくのだね。水路はいつか繋がって、互いの水を注ぐんだよ。涸れた路にも水が通うことがある…とても幸いなことにね。」
 ふふ、と穏やかで不思議な微笑。やはりには、その思考は判じかねる。ただその優しいともとれる眼差しばかり。ああまるでやっぱり人間だ。立体映像、プログラム。そんな言葉くそくらえだ。ああなんでそんな。君は子供じゃないか。
「ノア!ノア、だめだよ死なないで!」
 口をついて出た言葉こそ真実だった。だってそうだ。おだやかな微笑。彼はまるで死ぬ人間の浮かべるそれを押さない顔立ちの上に乗せてを見ている。消えてしまうと知っていて、それでいいと言う人間の顔。残される哀しみなんてしりもしないで。満足そうだから仕方がない。
「死ぬ…?」
 乃亜はその単語を、軽く笑い飛ばす。
「あいかわらずばかだね、…僕にその表現は該当しない。塵も残さず消えるだけだ。」
 わかっていないのは君だ。の喉は涙に詰まってしまって、どうにも言葉にならない。ばかだね、と笑うその小さな会話。毎回がなにか失敗したり、瀬人との関係で悩んだりする度、ばかだね、と画面越しに投げられた言葉。生意気で小憎たらしくって。その会話が日常から消えてしまうのが、どうしてこんなに名残惜しい?ほんの数ヶ月、の暮らしの片隅にいきづいた少年は確かに、かけがえのないものだったのだ。にとって。遠いあの人の面影をして、それでいて彼を再びに近づけた。その君が、いなくなる。
 いなくなる。
 の目から涙が落ちた。それに乃亜が、目を眇めて微笑む。
 ああそうだ。君にどうしても、会いたかった。と。
 瀬人が笑う相手、君にだけ、彼は微笑みかける。そんな君に会いたかった。僕になくて瀬人にあるもの。彼はそれをたくさん持ってる。生きた体、今はもう失われたが両親の愛、木馬に、遊戯に、真っ白な竜に、それから君。だからといって、君らが欲しかったわけじゃない。もうそんなことは、聞き分けている。僕は負けた。敗北は潔く認めよう。彼は僕にないものを多く持っており、彼の方が僕より、優れているのだろう。
 だからそれは、ただの好奇心。ただ興味があったんだ。
 どんな人なのか。どういう人なのか。どうして君なのか。なぜ君なのか。君は誰なのか。
 乃亜が笑う。が泣くから。
 今ならわかるよ、瀬人。
 内側でよく似た彼に微笑みかける。君は子供だから、まだわからないんだろ?って少しえらそうに。ねえ知ってるかい瀬人。僕たちはとてもよく似ている。顔形だけじゃなく、内側も。僕らは貧しい人間だ。ただ君の方が、僕よりは富んでいた。僕たちは、とても素直ではない。
「ノア、」
 彼女だけが呼ぶ、その響きが好きだった。幸福なあなた。やさしい人。
 きっとこの世で最も豊かな人間たちの数に、あなたは数えられるのだ。
 の涙を掬おうにも、彼の指先はもはやノイズが混じって分解しかけていた。真っ白な空間の空に、粒子が昇ってゆく。ヴァーチャルな空間でこんな演出はいらないのだけどなとほんのりと苦笑しながら、乃亜はそれでも笑った。きれいな水だ。生きているうちに、であえればよかったのだけれど。瀬人、君は幸せだ。彼女の枯渇することのない、黄金の滾々と湧きいづる泉を知っているか。彼女が惜しみなく、君に注ぐ水のやわらかさを、清さを、美しさを知っているか。
 止まらないなみだに、敬意を払おう。彼はやっぱり笑って、もう腕までなくなった手を振った。見えなくても、には見えるだろうと知っていたから。ぬぐってやろうなんて思わない。だってそれは、僕の役目ではないもの。
 ――瀬人、知っているか。
 白い空間の向こうに、彼は思い切り笑ってやった。
 この人は君を愛している。
「ねぇ、」
 なだめすかすような響きがあった。いやいやと首を振るを、なぐさめるような気配が。
 半分崩れかけた顔で乃亜が笑っている。その頭を抱きしめようとしたの腕を、すり抜けてゆく。いかないでって願うものは、いつだって失われてばかりだね。仕方がないよ。だから本当にあるもの、離してはいけないよって。
「知ってた?ほんとはこんな形だけど、僕の方がお兄さんなんだ。だからね。瀬人をよろしく頼むよ。もちろん木馬を一番に頼むけど。…瀬人は本当に、君がすきなんだよ。うまく言えないだけでね。」
 余計なことを、とどこかで忌々しげに吐き出された舌打ちが聞こえる。今度こそ満面の笑みを浮かべて、乃亜は、の頭を撫でる仕草をした。もう彼の顔も身体も存在しない。左の手のひらだけ、の頭を撫で続ける。
「ノア…!!」
 ひら、と左手が、ばいばいをするようにそよいだ。最後の砂が、空に溶ける。
「ノ…!!!『。』
 力強い声だった。どこかとおくから、白い空間を割って、節だった大きな右手が、に降る。誰の手かなんて、見なくたってには分かった。目がなくても、乃亜にも分かったにちがいない。手のひらが振られたのは二回。彼の分と、彼女の分。最後の遠慮がちな一度は、多分弟に。
 右の手のひらが、ためらいがちにの手をとる。次の瞬間には迷いなどなにもないような力強さで、ぐいと引かれるのをは熱く溶け出しそうな目蓋でぼんやりと思った。瀬人くん。違う種類の涙が、再び目の奥から溢れる。なみだはどこから来るのだろうか。涸れることなんてないようで、足元の水路をふと思う。

。」

 ふとすぐ近くで声がした。
 すっぽりと着地したのは誰かの大きな腕の中で、ぎゅうぎゅうとだきしめられて少し苦しい。ノア、君にこうしてやりたかったのにな。その手をすり抜けてしまった少年を思う。まったく、と呆れているのか怒っているのかわからない、慣れていない人間には怒っているとしか聞こえない呟きが聞こえて、それからやっぱり「お前はどうしてそうホイホイ得体の知れないやつについていくんだ。」と怒っているとしか言えない声が降る。ついていったわけじゃないよ、ただ気がついたらあそこにいたんだよ。小駑馬にできずに嗚咽で返したに、声の主がぐ、と押し黙る。
「……………泣け。」
 たっぷりとした沈黙が最初にあった。
「もう泣いてるよ。」
「この俺が超絶過密なスケジュールの合間を縫ってわざわざ胸を貸してやるんだ。世界の誰にも負けないくらい泣け。でなければ許さん。」
 ぶっきらぼうを通り越して無愛想な言葉に、なにそれ、と笑ったら、笑うな、と声が降る。あべこべだよ、瀬人くん。目蓋を擦りつけた胸元からは、優しい鼓動が聞こえた。


(20090413)


















01
10.Water Chapel_(水の教会)


 初夏というのは好きだ。新しい緑と、新しい光が、あちこちに満ちて。白い服が街中に多く見える。みんな太陽を反射して光って、カモメみたいだ。
「モクバくん、」
 こっちだよ、と呼ばれて彼は振り返った。いつもの店、いつもの待ち合わせ場所。こっちこっちと白いテーブル越しに手招きされて、モクバは笑顔で少し駆ける。日の当たるテラス。往来の光も緑も明るい。
 いつもの通りモクバが向かいに腰を下ろすのを横目に、ご注文はと訊ねるウェイターに、やはりこれまたいつもの通り、はオレンジジュースと紅茶、そしてケーキを頼んだ。どれがいいかと言う問いに答えながら、機嫌が良いのだなとモクバは思う。
 長かった髪をばっさりと切ったは、少女のようだ。なんだか昔に戻ったみたいだなと、モクバはこっそりドキドキしている。細い首が白く、太陽に光っている。耳元で緑の石が揺れて、笑うによく似合う。なんだか明るくなったみたいだ。髪を切るのは失恋したとき、とよく聞くけれど、兄の機嫌も悪くはないし、もちろん別れてなんていないみたいだ。世間一般の通説というやつは、やっぱりあてにならないや、とモクバは少しもったいないような、けれども嬉しいくすぐったさに足を揺らす。昔は足が地面に着かなかったものなのに、今はしっかり足が着くどころか椅子の背がちょっとばかり足りないくらいだ。
 チリリとどこかで、風鈴とは違う涼しげな音がする。
 もうすぐ夏だ。
 乃亜がいなくなって――そうだ、結局一度だって会えなかった、少し落ち込んでいたモクバに、から電話があった。
 いつも不思議と、モクバが沈んでいるとから電話がある。兄がこっそり告げてでもいるのだろうかと考えたことがあるが、そもそも自分の兄が「実は最近モクバが…」なんてに相談する様子が想像できなくて、モクバの中でその不思議なタイミングの一致は、の不思議な第六感ということになっている。だってそっちのほうが素敵だし、なんだかちゃんと思われているような気がするもの。
 いつもの通り、二人は他愛のない話をする。
 学校のこと、友達のこと、兄のこと、それから会社のことと、デュエルのこと。
 やがて飲み物と、ケーキが運ばれてきた。にはフルーツのタルト、モクバにはチョコレートケーキ。モクバは昔から甘いものが好きだ。子供っぽいと言われようがなんだろうが、おいしいものはおいしい。
 いただきます、と二人で小さく声をそろえて笑う。兄とは流石に、照れくさくてこんなことはできない。の短くなった髪が耳のしたで揺れて、木影が白い肌に光る。
「あれ、」
 ケーキを食べようと、ふと髪を耳にかけたの指に気がついて、モクバは目を丸くする。
「え?」
 とあどけなく目を丸くするのくすりゆびに銀の指輪。
「あーっ!!!」
 わらうのは小さな青い石。だって約束したもの。いつかの夕焼け。誰も知らない白い水路。水の教会。


(20090514)