01.宛名のない手紙が届いた
02.樹上の姉弟
03.かくれんぼの記憶
04.透明な声を聴いた
05.石の花
06.僕の話を聞いてくれ
07.彼は消滅した
08.君に降る雨
09.水路
10.水の教会
(電子の中の水路)
20080926~20090514
01.
01.No Name Letter_(宛名のない手紙が届いた)
―――電子の海を泳ぐ。青白く明滅する信号の中をゆけ。流れる文字列に意味はない。意味はない。それはこの海を構成する元素のひとつに過ぎないのだ。電子の海をたゆたう。声を辿り、探せ。お前は常にどこにでも存在し、そしてどこにもいない存在。すべてはふたつの数字から成り、お前を偽る。
ポンと妙に軽い電子音がして、メールの着信を知らせた。
は少し顔をあげ、画面から一度目を上げる。
時刻は午前0時40分。そろそろ眠ろうかと、思い始めた頃だった。こんな時間に誰だろうか。純粋に不思議だった。真夜中に携帯電話ではなく、パソコンにメールをしてくる相手に心当たりがない。疲れた目を画面から逸らし、少し息を吐く。眼鏡を載せたままの眉間が鈍く痛んだ。レンズを外して、視界が弱く霞む。どうせ迷惑メールだろう。
眼鏡をかけ直すと、レポートの資料収集のために何重にも開かれたウィンドウを順々に閉じた。この時間まで粘ったが、やはりネットで収集した情報ではあの偏屈な教授を頷かせることはできそうにない。壁にかかった、カレンダーを見上げる。――あと20日。明日は図書館へ行こう。
チカチカと、画面の右下で早く見てくれと急かすように、一件の新着メール、その文字が明滅している。
その赤い文字をクリックする。立ち上がるメール画面。スクリーン上に浮かぶ宣伝画像が、真夜中であるにもかかわらずさも元気そうに飛び跳ねている。真夜中大抵の人間が静かに生活していることを考えて、そのテンションの差に少し笑えた。どこか微笑ましい。
メールに件名はなく添付もない。やはり迷惑メールだろう。中身を開くことなく、notitleの隣のチェックボックスに印を入れ、削除をクリックする。
メールは削除されました。
通常であれば表示されるはずの画面が現れなかったことに、最初は驚かなかった。もう一度、当たり前のように削除をクリックする。
(…え?)
二度、三度と右手の人差し指だけで同じ動作を繰り返し、やはり削除されないメールに、ここへ来て初めては眉を潜めた。おかしい。故障だろうか。この時期に故障などされては、生活に関る。一度画面を閉じようと、右上へカーソルを滑らせた時だ。
ブンと小さくパソコンが震えて勝手にメールが開いた。
中身はなにもない。真っ白なメール。
『ウィルスは検出されませんでした』
画面の右下に文字が浮かんだがそんなことはもはや気にはならなかった。
「…なにこれ?」
真っ白な。本当に真っ白なメール。
「…嘘、」
気づいて呆然とする。このメールに送信元のアドレスはない。ただNとだけ。それだけ。宛名は白い。ほんとうに真っ白。不信感をあらわに、は右上のバツを何度も押した。カチカチと人差し指の先で従順なネズミが鳴る。しかし、その真っ白な画面は消えることがない。
青白く画面は光り、の顔に同じ色を映している。さながら水面の反射光のように。ぶれるはずなどないその電子の光が、揺らめいたように見えた。
真っ白な画面に、ポツリとひとつ、ラインが入った。まるでそれは、白い聖域を侵す邪悪なものにも見えたし、混沌の中に生じた言葉のように光放つものにも見えた。白い本来ならばメール本文が表示されるべき画面に、まるで、誰かがのキーボードを勝手に叩いてでもいるように、ローマ字打ちで、文字が、順々に浮かび上がってくる。
H,E,L,L_
まるで小休止を入れるかのように、四文字を打ったところでアンダーバーを点滅させ、文字の羅列がふっといたずらに止まった。
(地獄。)
がゾクリと背筋をあわ立たせたところで、まるでそのの動揺を知っていると言わんばかりに、文字が続いた。O,
「やだ、」
誰もいない部屋にも関らず、は椅子から立ち上がり、小さく叫んだ。
>>Hello,.
画面に浮かんだたった一行。人を小馬鹿にしたような、満足げなニヤリという笑みを浮かべる口元が、ふとの脳裏をよぎった。
ブン、と大きく、冷蔵庫が唸り、はハッと振り返る。薄い暗闇が広がっているだけだ。なにもない。誰も、いない。もう一度、画面を見る。そこには見慣れた、"メールは削除されました。"の文字が浮かんでいた。
(20081017)
・
02.Brother on the Tree_(樹上の姉弟)
あの不可解なメールを受信してから二週間が過ぎようとしている。相変わらずと言っていいのか、それ以来電子機器の不調は続き、もう今週に入って台所の電灯が三回切れ、パソコンが仕様途中に二度ほど落ちた。電子レンジも、調子が悪い。冷凍庫の氷が水になる。それらはほとんど僅かではあるが着実に、の日々に些細な不安を積み重ねていた。音もなく夜中の間に、雪が積もるのと似ている。このまま静かに知らず知らず、日常生活が埋め尽くされてゆくのだろうかと思うと空怖ろしい気持ちになる。眠ったまま死んでゆくのと、きっと同じような感覚だろうと、には思われた。
「どうなんだ?まだ電気製品おかしいのか?」
少年が眉を寄せて心配そうに訪ねた。の正面に座った少年は、名をモクバと言う。癖のある固そうな髪を短くあちこちに飛び跳ねさせている彼は、今年でもう16になる。中学校にあがってからというもの、伸ばしっぱなしにしていた髪を切ったモクバはずいぶん大人びて、背が伸びた。きっとまだまだ伸びるだろう。彼の兄のように。白い学ランが良く似合っている。
はウェイターに紅茶とオレンジジュースを頼みながら苦笑気味にその問いに頷いた。どんな具合に?と尋ねられるままに、幾つかの心当たりを挙げてゆく。そうしてに相槌打つ間にもどんどん少年の眉間にはしわが寄っていって、なんだかどちらが悩んでいるのかわからなくなった。
「…それ、やっぱり絶対変だよ!任せろ、こうなったら海馬コーポレーションの総力を上げて原因究明を…!」
腕まくりをして見せるモクバに、は静かに首を振る。
「ううん、」
ちょうど良くウェイターが、トレイを持って音もなくやってきた。コトリと音を立てて、冷えたオレンジジュースが彼の目の前に置かれる。触れずともキンと冷たい状態であることが、ガラスの表面に浮かんだ水の粒で知れた。モクバは、少し、じつとその飲み物を見つめる。
と外で会う時はいつもそうだった。彼女は紅茶を頼み、モクバにはオレンジジュースを頼む。幼い頃から変わらない。いつか自分の前に置かれる飲み物がと同じになるのだろうか、とモクバはふとストンとどこかへ落ち込んでゆくような心地で思う。紅茶ふたつ、と彼女が彼の兄と同じように、言う日がくるのだろうかと。正しく言えば彼はもうオレンジジュースより紅茶の方が好きだったし、珈琲だって、少し苦いのを我慢すれば呑むことができた。しかしそれを言い出せないのは、この位置に甘んじているからだ。オレンジジュースと彼女が言う限り、彼は無償で、このやわらかい椅子にときおりうずくような歯がゆさを抱えても優しさと親愛を込めて座っていることができた。時折しくしくと心臓のあたりが痛んでもそれすら抱きしめていることができた。だからこのままで、いいと思う。彼が恐ろしいのは、が彼に、なにがのみたい?と尋ねるその瞬間なのかもしれない。
私は紅茶。モクバくんは?オレンジジュース?
初めてと外へ出かけた日、そう尋ねられた。それが嬉しくてうんと満面の笑みで幼い彼が頷き続けた結果、今がある。いつ頃からか、なにがいい?が、オレンジジュースでいいよね?に代わり、そしていつしか尋ねられることはなくなった。それが崩れる日など、彼には想像も付かず、またどこかでその日が来るのを恐れてもいた。あまり深くは考えたくないことだった。考えるのを放棄するのも、また逆を選択することと同じくらいに、むずかしい。
「ううん、そんな、いいのよ。会社を私用に使っちゃだめ…っていうか、私のためにあんな大会社の総力上げてどうするの。」
困ったなぁと優しく笑うが砂糖を紅茶に落とすのをその大きな目で見つめながら、モクバはオレンジジュースの赤いストローに一口くちをつける。すっぱさの後に甘味が残って、どうにも喉の辺りに溜まる。はいつも紅茶に砂糖をふたつ落とす。
「でも、」
上目使いのまま、モクバはなおも言い募った。ただ最近、彼にはその、でも、の後に続く兄の話をするのが少しばかり切ない。ほんの少し。
「でもは俺たちの家族同然なんだぜ?困ってるならほっとけるわけないじゃないか…兄様だって絶対そう言う。」
その言葉に、案の定は優しく眉を下げた。しかしモクバは、その微笑に躊躇いと困惑が僅か含まれていることも知っていた。もちろんその原因も。
街並の賑やかさは少し遠く、二人の間には穏やかなフランスの音楽が流れている。落ち着いた午後の、カフェテラス。二人はお互い親愛と戸惑いと焦りとおそれと優しさを抱えて座っている。
「……兄様にプロポーズされたんだろ?」
モクバは自分の声が驚くほど普段通りに出たことに驚いた。街は賑やかなのにここはこんなに静かだ。
はうっすらと微笑んだまま往来を見ていた。瞬きをする様がスロウに見えて、伏せた瞼が美しいと彼は思う。でもその薄い瞼にくちづけるのは彼ではなかった。兄がそんなこと、するのかどうか、彼は知ろうとは思わない。
「もちろん、受けるんだよな。」
と本当に、家族になれるならばこんなにも嬉しいことはない。なのになぜこんなせつない心地がするのか、彼は知っていたが分かっていないことにする。そうしなければ、もうがオレンジジュースと頼むことはなくなるだろう。本当は紅茶か珈琲が飲みたいという言葉を飲み込んで、それでもこの太陽の色をした飲み物を飲み干すことがなくなるのは、自然に自然に二人が年を重ねてからだ。やがて彼女に大人と認められる年になったら、が自然にモクバの分も紅茶か珈琲を頼んでくれるだろうか。それとも彼自身が、俺珈琲がいい、と言ってそれにがモクバくんももう大人だねえ、と優しく目を丸くしてくれるのだろうか。そんな変化がいい。彼はそう思う。他の変化は、望ましくないと、彼にはもうずっと感じられている。いつまでも兄との弟のままいたかった。
が静かに口端を上げる。困ったような笑いかた。
「…うん、」
その、うん、が肯定の意味を持っていないことを彼はなんとなくかぎとって、モクバは驚きにの顔をじつと見つめる。往来に目をやったまま、彼女はもう一度、うん、と相槌を打つ。
「…よくわかんないの。」
小さな呟きはモクバにはよく聞こえて、その迷子じみた響きに彼は何も言い返せやしなかった。数日前の、苛々として帰ってきた兄を思い出す。兄様と飯食ってきたんだろ?その言葉に兄は黙って頷いた。
『プロポ−ズしてきた。』
『はあ!?』
『なんだ。』
『いっ、いや、あの、おめでとう兄様!』
慌てて目を回しながら言ったモクバに、兄はぴくりともわらわなかった。元から彼は笑ったりはしないが、それでも纏う雰囲気で笑うときはそれとわかる。彼はそのとき、ほんとうに、ぴくりともしなかったのだ。
『おめでとうではない。』
その言葉の意味が、今ようやくわかった。は断ったのだ。
「もうね、瀬人くんたら、ほんとへんなの。こーんなでっかいジェラルミンケースに指輪入れてるの。私びっくりしちゃって。」
モクバの顔になにか嗅ぎ取ったのか、慌てたようにが言葉を取り繕う。
モクバはの左手を見る。そこに指輪は、ない。
(20081017)
・
04.Transparent Voices_(透明な声を聴いた)
いつの間にか眠ってしまったようだった。突っ伏したままだった体を持ち上げて、は一度伸びをする。外は夕暮れ。陽が赤い。首をかたむけると凝り固まった鈍い音がした。まったく目の前のパソコン画面の文章に進展は見られない。まったくレポートの提出期限は近いというのに。
「…ガチガチだ。」
小さく呟いたら笑ってしまう。
懐かしい夢を見た。いつかの夕暮れだ。まだ彼の人が、優しさを隠すことのなかった頃の。ほんとうに幼かった、遠い、遠い、夢。なつかしい、とは震えそうになる喉で思った。ああなんて懐かしく、慕わしい、ゆめ。手を伸ばせば、触れられるような気さえする、いつかの幻燈。ただの記憶。「さよならなんだ。」とあの少年は言った。
「…え?」
「俺達は、海馬剛三郎の養子になる。」
「え、」
「…だから孤児院を出るんだ。」
あの日を覚えている。多分あれ以来、あの笑顔の優しい少年は失われてしまった。
「がもし、」
「もしほんとうに、モクバの姉さまになってくれる気があるなら、」
頬を真剣にあかくして、そう言った少年が、昔、いた。透明な声で、その力強い瞳に優しさを込めて、そう言ってひとりですべて決めていってしまった少年が、いたのだ。誰にも負けない、強さを持って。帰ってくるとそう言った。いつか、と確証のない遠い明日の約束だけして。弟の手だけひいて、行ってしまった。それから随分会わなかった。ときおり記憶の片隅で、あの二人の少年が微笑みかけては、もほほえんだ。げんきにしてるかな、なかよくやってるかしら、って。多分、それくらいで、ちょうどよかったのだ。優しくってなつかしい、大事な記憶の箱の中だけにとどめておけたなら、どんなにか彼らを素直に愛せたろう。
しかし彼は、やってきた。約束の通りに。そうして彼は、会いに来た。
宣言の通り、とてもとても、強くなって。は少し、瞼を伏せる。だって、ああ、そうだ。彼はあまりに変わってしまった。変わらない部分もたくさんあるのに、なのにやはり、変わってしまったのだ。もちろんだって、変わってしまったのだろう。彼の不器用な好意に、素直に喜んで見せることが出来ない。どうして素直に、ありがとうと受け取れないのだろう。幼い彼が、そんなに懐かしいのだろうか。それともただ単に、思い出が美しくなりすぎただけ?
『、』
と彼女を呼んだ男に、覚えがない。いいや、とてもよく知った面影が、そこにある。けれども。
『迎えに来た。』
最近の記憶。なのにこちらのほうが、ずっと昔のような気がするのは何故だろう。
真剣な目だ。青い目。彼は約束を違えなかった。昔から変わらない、一本気なところ。でも変わってしまった。少年はどこにも見当たらない。そこにいたのはひとりの男の人だ。男がを呼ぶ。少年と良く似た響きで、低い声で。そのことがには、なぜだか足がすくんでしまうような恐ろしさがあった。噫どうして大人になってしまったの、そんな呟きが頭の片隅に浮かんだ。ねえ、どうして。私のこと知らないのに。
モクバの成長は知っていた。こっそりよく会っていたから。でも彼のことは知らない。モクバから心配そうな言葉や誇らしげな自慢を聞くばかりで。記憶の中の少年は成長しない。高校2年の夏、彼が現れたとき、彼女は息も止まるかと思った。隣のクラスに転校してきたのだ。瀬人くん、と尋ねる声が震えた。彼は少し冷たい目でを見下ろしただけだった。その後すぐに彼はしばらく学校を休んで――帰ってきたときの彼には少しずつ少年の面影が戻ってきていた。思わず微笑んでしまうようなときもあった。あれからまた随分共にいるようになったと思う。それでもは、思うのだ。君は、私の、なにを知って、見ている?君は本当に、今の私、見ているのだろうか。私は君の、君の昔を見ているのかもしれないのに。やくそくだから、私を見てる?ねえわからないよ。
あの冷たい眼差しがまだ喉に痞えるのだ。
伏せた目蓋でじっと指先を見た。なにをためらうのだろう。少し笑いたくなる。白金にブルーサファイアの、シンプルな指輪。素直に美しかった。あれは今、彼女の指にはない。それが彼の想いだと言うなら彼は何一つ変わってはいないに違いなかった。わかっている。それでもなお、あの人の手をとることは、こんなにも難しい。
ふとノイズが、耳に入った。ジリ、と焦げるような、はっとさせられる音。
ぱっと反射的に顔をあげたの目に、少年が映った。画面いっぱいの砂嵐に混じって、少年の顔が、ゆらり、ゆらり。画面に覗く。よくテレビで見るような、奇妙に歪んだ顔。画面のノイズもだんだんと、クリアになる。スピーカーから流れる海鳴りのような音は、不思議と静か。は驚きに声もでなかった。恐怖よりも、驚きが勝った。
その顔。
モニタ越しの少年の面差しに、とても覚えがあった。知り合いに、とてもよく似てる。今この瞬間まで、見ていた夢に、よく似てる。似すぎている。違うのは瞳の色だ。緑の眼差し。それでも似ている。まだ夢の続きだろうかと錯覚するくらいには。
「…あ、」
画面の中の少年と、目が、合う。悲鳴は出なかった。
「…君は誰なの?」
囁く言葉が震えた。
「君は誰?」
どうして彼に、そんなにも似ているの?
少年の画像は、時折ノイズが混じって奇妙に歪む。しかしその口の動きを追うことは、そんなに難しいことではない。
砂嵐にも海鳴りにも似た音が、スピーカーから断続的に流れ、こちらにもやはり、コツコツとラップ音に似たノイズが混じった。
「………お?お…あ……の、あ?の、あ。のあ?のあ…ノア。」
少年が頷く。こちらの声が、聞こえているのだ。
ノア。生き残る男の名。すべて人類の、第二の始祖の名だ。
ノア。
「…君は誰なの?」
画面の向こうで、少年が薄ら寒いような、美しい微笑を浮かべる。スピーカーが少し高く鳴る。シグナル。それはなんに対する?
ザッと砂嵐が途切れ、音が止む。スピーカーがありえない音を拾った。
『やっと会えた。。君を知っている。』
(20090114)
・
05.Stone Flowers_(石の花)
瀬人は腕を組んだまま、開いた目を閉じて、開いて、また閉じる。社長室からは街が一望できるが、それも彼には見慣れた風景であり、それでいて今それを眺めるような気は起きなかった。彼が座ったソファの向かい、同じ黒い皮張りのソファに浅く腰掛けた。その人が原因である。
いつから彼女は自分の前でこんなにも畏縮したような雰囲気を見せるようになったろう。再会した頃?いいや、彼女は自分の素直になれない態度に声をたてて明るく笑ったりもした。いつからだろう。こうして二人向かい合うことを彼女が避けるようになったのは?
そわそわと落ち着かない様子で、の目があたりを見ている。追い詰められた小動物とはこういう感じだろう。それほど彼女は逃げ道探してる。自分からの。それがどうしようもなく彼を腹立たしい気分にさせ、ますますを小さくさせた。
「…瀬人くん、」
「…この間の話だが。」
帰ると言わせることはできないと思った。それと同時に彼はの言葉をさえぎって言葉を発していた。いつからこうして先回りして退路を塞ぐようにしなければ、と会話も続かなくなったろう。この男をこんなにも落ち着きなくさせることができるのは、おそらく彼女と弟と、それから武藤遊戯くらいのものだろう。それぞれ三人ともが、その自覚を持っていないのがやっかいではある。
「…うん。」
はのろのろと、顔を少し上げる。瀬人は少々、いいやそれ以上に苛ついている。に対してこんなにも、腹立たしさと歯がゆさを覚えるのは初めてのことだ。彼女に対して彼は、分かれたころの少年のままのような、やわらかい防御核しかもたなかった。それなのに覚えたことは多すぎて、そして成長した少女がほしかった。欲しいものならなんでも。その彼にとってそれは喉から手が出るほど欲しいものだった、けれど同時に、それでも奪いたくはなかった。それが自ら、自分の手の内に飛び込むのを祈るような気持ちで願ってた。そうでないならただあの頃のように、そばにいてくれるだけでもいいとすら思えた。ときおりその肩に額を当てて長いため息を吐くことを許してほしかった。
「…どうするんだ。」
「…。」
「断るのか?」
まさかそんなわけはないだろうな。そう言外に言っている。その威圧感は相当なものだ。彼にはが渋る理由がわからない。だってそれなら、何故もっと早く、自分から離れていかなかったのだ?いつでもそうする、機会はあった。彼の苗字が海馬になる前とは、自分が随分変わってしまったことに自覚はあったし、素直に優しくすることだってできない自らも把握している。それでも海馬瀬人の隣にも、はもう随分長いこといたのである。それは自らと同じように、もまた自身を必要としているからに違いないのではないのか。別れる前、それから再会してそれから後と、それら共有した時間すべてが、その証だと彼は思ってた。一緒に笑った遠い過去も、が隣で笑った近い過去も、すべて。それでもは、なお首を縦にも横にも振らない。
「そういうわけじゃ、ない。けど、」
の返事はいつも同じ。
「少し時間が欲しいの。考える時間が欲しい。」
もう充分与えただろう、とはなぜか彼は言えなかった。
まるで石のつぼみを見るようだ。決して彼に向かって、ほころぶことのない花。それが咲けば、どんなにか美しいのか、彼は誰より知っているのに。
(20090115)