(いつも)
(頭に響いている)
(そのメロディーは、)

 妖精を信じていた頃を覚えているか?
 例えば枕の裏のおばけとか、一角獣に真っ白な天馬、オルゴールの中に住んでる小人のこと、四葉の魔法、そんなもののこと。
 おとぎの国の住人だった頃のこと、覚えている?
 そうだね、大抵の人は忘れてしまうね。魔法使いだって、大抵忘れてる。ああそれはこういう魔法でしょう、って説明つけて、あははなんだいそんなおとぎ話って笑ってしまう。
 でも違ったはずなんだ。あの頃の魔法は、学校で覚えた魔法とは違ったはず。でも忘れてしまうね、みんなみんな。大抵はそうだ。
 でもその少年は覚えてた。
 いつまでもいつまでも、彼は覚えていた。
 少年が、振り返れば、忌々しくも恥ずかしい、無知で残酷であったあの頃、夜空しか知らなかった小さな世界、青空を連れてきた、あるいっぴきの、小さな妖精のこと。



 カサリと風もないのに紫陽花の葉が揺れたので、シリウスはきっとカタツムリだと思って嬉しくなった。

 ブラック家の豪邸は、庭も広い。日本趣味は貴族の嗜みだ。モネもゴッホも、日本を好んでた。彼の母は印象派を好んだ。
 彼らはマグルの絵描きではない。だからこそあんな美しい色彩が出せるのだ。純血主義の彼の家には、いつだってそれらの絵が飾ってあった。重厚で物々しく、黒く暗い洋館の中で、モネなんて特に、白く浮いて見えたものだった。シリウスは彼が光を失いかけてからの、ぐちゃぐちゃの筆致の絵が好きだった。彼の母はもちろん貴婦人の絵を好んだ。


 広い庭には、ばらの庭、フランス風の庭、日本風の庭(これはあくまで風だと後々彼は思う)、小さな森、美しい池、たくさんのカテゴリがあった。池には舟を浮かべたりもしたし、広いゴシック風の庭では禍々しい集会が盛大に催されたりもした。
 日本風の庭は、なに、たいしたことはない。4エーカーあるかないかのスペースに、小川と、小さな丘と、それから日本の植物(とされるもの)が美しく西洋風に植えてあった。母と歩くとき、彼はよく尋ねたものだ。母上、あれはなんという花なのですか。
 ゆったりとした黒いローブを引きずって、彼の母はいちいち答える。サンザシですよとか、あれは紫陽花というのですとか、梅、桜、菊。笑ってしまうかもしれないけれどね、その魔法使いの庭には季節なんてなくて、いつだって日本の植物が咲き誇ってた。季節なんて知らない。花々は咲いている。緑のバケツをひっくり返したみたいな中に、桜と椿が隣に咲いて、鞠みたいな見事な紫陽花の隣に、背高のっぽの月見草が風に揺れてた。雑多でそのくせ洗練された、美しい庭だった。そうだね、まるで彼の家みたい。
 母を含めたブラック家の女性陣が一番のお気に入りにしているばら園よりも、とりとめのないこの庭がシリウスは好きだった。異国の木はときおり、醜くすら見えるように曲がって育った。それが美しいのだと大人は言う。彼は曲がった木は登りやすくて好きだった。大きな桜の古木は、彼が昇るのにはちょうど具合が良かった。


 カタツムリ、あの小さな生き物を連想して彼はにんまりとする。殻を粉々に砕いてやるのだ。そうして出てきたナメクジより貧相な生き物に、彼は魔法でいろんな"家"をやる。岩塩の結晶とか、あるいは重たい重たい石とか。
 またカサリと葉が揺れる。
 彼はにっこりと笑って、そおっと葉の裏に手を伸ばした。小さな川を挟んで少し高いところにあるので、気をつけなくっちゃあ、いけない。ぴかぴかの黒い革靴を、汚してしまっては怒られるからだ。白い半そでのシャツに、大きな黒真珠のカメオ(もちろんブラック家の紋章が入っている)を止め、黒い半ズボンにきちんとしろい靴下を履き、彼の格好は外で遊ぶにはあんまり適していない。それでもシリウスは気になんてしないし、もう9つだ。服の汚れを一瞬で落とす呪文くらい、彼は知っていた。
「…(もうすこし。)」
 手がやっと届いた。ひらりと葉がめくれる。夏の光を透かした黄緑の裏側。
 そこには。
「…」
 黒い睫毛を瞬かせて、シリウスはじっとその葉っぱの裏にいたものを見つめた。
 黒い髪黒い睫毛白い肌灰色とも銀ともつかない美しい虹彩。シリウスを構成する美しい形。弟は瞳がブラウンだった、その髪はやや茶色に近かった。母はシリウスのこの星をまぶしたような瞳が自慢で、弟よりもっと漆黒に近い黒の髪をした長男がいとおしかった。その頭のよさも、魔力も、知能もすべて、彼は幼いころから突出していた。それに彼は、ブラックを絵に描いたような、美しい少年だったから。

 そこにいたのは、ちいさなちいさな女の子だった。とっても歳が若いっていう意味じゃない。小さなシリウスの手のひらに乗るくらい、小さくて、でもシリウスよりは二つ三つ年上の容姿をした少女。その背中からは、蜻蛉に似た、でもそれよりもっともっと透き通った翡翠の翅が生じてた。
 これはなんだろう、シリウスの目玉がぱちくりと瞬く。小人?いいやこんなにきれいじゃない。屋敷僕?もっとこんなにきれいなわけがない。これはなんだ?これはなんだ?
「お前、何なの?」
 少女が恐る恐る口を開く。
『…妖精』
 小さな小さな声だった。日向のゴーストの囁き声より、きっと小さかったに違いない。でもなんでかな、シリウスの耳にはちゃんと届いた。
 震えてる。
 それはレギュラスが、母に叱られやしないか父に呆れられやしないか、びくびくしてる様子にすごく似ていた。それはシリウスに、たやすく憐憫というものをもたらした。その髪の毛が、ブラウンがかった黒だったからかもしれない。その瞳が、ブラウンだったからかもしれない。
 fairy、そう言った少女の言葉をなぞる。なるべく優しい調子で。目の前の妖精はちいさくってかわいくってそしてきれいだ。
「妖精?」
『…そう、妖精』
 見えてるの?そっと重ねられた言葉に、シリウスはうんと頷く。
 途端こまったようにぱっとはにかんで肩を竦めて、妖精が笑った。なぜだか知らないけれど、シリウスはそおっと小さな小さな目蓋の裏に、灯りが差し込むのを感じた気がした。



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