(宝物はたくさんあった)
(捨てないでって泣いたよ、まだ覚えてる)

「アンドロメダ!」
 そおっとばら園を駆け抜けてシリウスは従姉を呼んだ。夏のばらは一年中咲いてはいるといってもやはり一番生き生きと咲き誇って、その匂いは空まで包んでむせ返るようだった。オールドローズの垣根を潜って大振りのロメオの茂みを抜ける。くらくらとするような、ばらの香りも少年には慣れたものだ。町の女たちの香水などとは比べるも及ばない、高純度なばらの香りに、小さな庭は満ちている。
 赤く燃える星の、スターレッドを通り抜けて、淡い淡いイエローのぷっくりしたエチュードの領域に、彼女はいた。高く結い上げた黒髪の、後れ毛はやや銀色に透けている。細い首筋の、白いこと。
 彼女はいつも、ばら園ではこの白や黄色の淡い色をしたばらの中にいることが多かった。ローマンホリデイ、丸い花びらのさきだけピンクがかった白いばらを撫でていた彼女は、小さな従弟の出現にも驚かずににっこりと微笑んだ。
「シリウス」
 この人は他の女たちと違ってやんわりとえんりょがちに微笑む。どう私は美しいでしょう、と咲き誇る深紅とは違った。アンドロメダ、と名づけられた深い紫がかった赤の、幾重にもドレープを重ねた葉脈に銀の粒がチラチラと光るばらを、彼女があまり気に入っていないのをシリウスは知っていた。エーデルワイスが好きよ、と彼女はその白くて小さな花を撫でる。そう、彼女はいつでも光に透けるように、おっとりと微笑んだ。
 サマースノーの花びらが、ちらちらと、それこそ本当に雪のよう、光を透かして彼女の上に降っていた。黒髪を星のように滑って落ちる。


「秘密にできる?」
 それが少年の第一声だった。それに、もちろん、とアンドロメダは頷いた。純粋に小さな従弟は美しくかわいらしかった。素直で、無邪気で、時折残酷。しかし彼女は、それをなんと言って嗜めればいいのか知らなかった。だからせめてでも、って言うみたいに、彼女は従弟に優しかった。そしてなるべく、彼の前では、彼女は正しい優しいであろうと努めた。例えばそれが、家から外れることでも。
「なにかしら?」
 シリウスは、うれしそうに内緒話の要領で顔をアンドロメダに近づけて笑った。そしてそのやわらかく重ねた手のひらをそおっと開く。
「これ」
 宝物でも抱えてるみたい、アンドロメダは首をかしげて微笑む。少年のやさしい手のひらの仕草が喜ばしかったから。いったいなにを持っているのかしら、って歌うようにもういちど首をかしげて、彼女はシリウスの小さな手のひらを覗き込んだ。


「どうしてアンドロメダには見えないんだよ」
 むすっと膨れてシリウスが言った。それに手のひらの上にちょこんと座った妖精は申し訳なさそうに肩を竦めてシリウスを見上げる。
 彼女は良く知っていた。彼女の棲む庭の持ち主がどんな一家であるのか。ばらの香りとうつくしい乙女たちに、ほんとうなら一角獣だって惹かれてやってくるだろう、そんな素敵な庭だった。けれどもそこに住まう生き物が少ないのは、全てその持ち主と屋敷の性質のせいだった。わずかに暮らす生き物達も、目立たないように見つからないように、息を詰めて暮らしている。
 こんな素晴らしい庭でなぜって?もちろんガーデンパーティーの余興が、いったいどんなものであるのか、みんな知っていたから。だから見つからないようにって彼女も生きてきた。
 見つからない、見られないはずだったのに、見つかって、あげく会話まで交わしてしまった。大きくて(もちろん彼女にしたら、だ。)無邪気な手のひらに抱え上げられて、ああきっと死んでしまうのだと彼女は思った。
 けれどその手のひらが、あんまりふうわりとやさしく、まるで巣から落っこちた雛を大事に抱えてやるみたいなね、優しい動作で彼女を包んだものだから、わからなくなってしまった。このきれいな少年が、8つの誕生日に失神呪文を放たれた鳩にかけてくるくる宙に浮かせて蛙のような声で歌わせた、あげく最後にはだれもがハッとするくらい、美しく燃やして大層褒められたのを知っていたからだ。
 でもこうやって、手のひらの中を覗き込んで少し拗ねた顔をしている少年は、まるでどこにでもいる、ただ美しいだけ、9つの少年だった。

『…おほしさまね。』
 ふとその大きな目を見上げて、妖精が呟く。
「え?」
『おほしさまみたい。その目。きれいね』
 それにシリウスはきょとんと目を開いた。先ほどの、もう少女を脱しようとしていた女性(噫あの深い藍色のヴェルベットのドレスといったら!)も、ひどく美しかったが彼もやはり美しいと妖精は思う。彼女を乗せた手のひらは、白く柔くてなんてあたたかなんだろう。勇気をだして彼女は少し微笑んだ。それに、ぱっとシリウスが首を傾げる。
 だって彼には当たり前だったからね。この目も、鼻も、顔立ちも。みんな当たり前だったんだ。当然だった。だから美しいとか、きれいだとか、それは生活の一部だったのだ。彼は知らなかった。だって一族が彼の容姿を褒めるのは、ブラックの名にふさわしい、漆黒を持っているから。
 (おおこの黒!)とよく彼の母は彼の髪と目とを指してそう褒めた。(おおこの高貴な銀!)虹彩を指してはそう言った。
(おほしさまみたい。)それは初めて言われた言葉だった。
「…そうかな」
『うん。』
 妖精が頷く。
 そおっと人差し指を伸ばして、妖精の透き通った翅に触れようとした。妖精がはっとして身じろぎをする。その顔があんまり怯えていたから、「さわるだけだ」ってシリウスは思わずそう言った。
『ほんとに?』
 こわごわ、と妖精が尋ねる。
『なんにもひどいことしない?』
 その様子はなんでだろう、よく、わからない、けれどシリウスの心に刺さった。どうしてかな、悲しくなった。ひどいことって言うのはなんだ、って辛うじて尋ねたら、妖精はそおっと躊躇いがちに首を傾げた。
『…翅を折ったり、』
「しない」
『翅を曲げたり、』
「しないよ」
『も、燃やしたり?』
「そんなことする必要ない」
 悲しいのでシリウスはなんだか怒っているような口調になってしまって、少ししまった、と思った。兄さま怒らない?ってレギュラスが聞いてきたときは大抵シリウスが怒ったり呆れたりすることをしでかしたときだ、そんなときと同じ声が出た。イライラしているんだろうか、なんだかそれとは、違う気がする。
『………でも鳩を燃したでしょう?』
 そおっと妖精の呟いた言葉は悲しげだった。見てたのか、ってシリウスが言うと、妖精は、『なんてむごいこと?』とポツリと言った。そうしてまっすぐ、泣きそうな小さな目玉でシリウスを見上げる。私も燃してしまうの?って。
 曖昧に微笑んで、褒めてはくれなかった、アンドロメダを思い出した。大勢に褒められて、頬を上気させたシリウスは、彼女のその儚げな微笑を見た途端、誇らしげな気持ちはぺしゃんと潰れてしまった。その時に似てる。そう、ああやってしまった、っていう理由のない後悔に似た気持ち。
「そんなことしない」
『なんで?』
「必要がないから」
 シリウスは語尾を強くして言った。
『必要があったらするの?』
「それは、」
『君は、私も燃してしまう?』

「そんなことしない!」
 とっさに大きな声が出た。それにはっとして決まり悪く眼を落とすと、妖精が微笑んだ。
 そおっとその小さな指先をシリウスの親指に重ねる。こわごわシリウスは、ほんの少しだけ、翅に触れた。ゆるされた、そう感じた。乾いた翅はあんまり軽くて、吐息にだって脆く崩れてしまいそうだった。



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