(止んだのは昔のオルゴール、)
(今も鳴るのは)
(お空の)

 妖精が撒く粉は、星屑のよう。キラキラキラってきらめいて、やっぱりそれは魔法だった。
『誰にも内緒にできますか?』
 少し澄まして、妖精はそう言った。
「できるよ」
 だからシリウスは、いつもよりずっと子供らしく、そう、大人が見ていない影で思い切り遊ぶときみたく、弾んだ声でそう答えた。
『じゃあ教えてあげます』
 肩を竦めて妖精が笑う。
 教えてあげます、君に。私の名前を。


 いる夏は、真っ青な空と、花の匂いとそれから秘密のおしゃべりで満ちていた。妖精が話しかけると花はみんな歌ったし、緑はぱっと頬を染めた。みんな私の友達なのよ、って彼女は歌うように笑う。
、」
 朝が来て、朝食を食べて勉強を済ませるとシリウスは庭に飛び出した。、妖精の名前。シリウスに与えられた祝福の名だ。彼はそんなこときっと知りもしないけれど。

『誰にも内緒にできますか?』
「ちかう」
『じゃあ貴方のお名前は?』
「シリウス」
 シリウスは答えた。
「シリウス・ブラック」
『では、シリウス。あなたに私の名を与えましょう。私の名はよ。忘れてはいけません。決して人に話してはいけません。ちかう、とあなたは言いましたね?これは契約です。あなたが呼べば答えましょう、シリウス。星の子供。』
 妖精の言葉はどれも詩のようだった。その言葉の通り、庭へ出てあたりに誰もいないのを確認して、、と呼ぶと妖精は現れた。


『こんにちはシリウス』
 葉っぱの裏で妖精が笑った。
「今日は何をするんだ?」
『なにをしようか』
「なにがいいかな」
 笑いながら、庭を進んでゆく。小さなをシャツのポケットに入れてシリウスはそこを手のひらでが潰れてしまったりしないようにそおっと庇って歩いた。
「兄さまどこへ行かれるんですか!」
 レギュラスの声だ。
 やべ、と小さく唸って、シリウスは駆け出した。
「秘密だ!」
 そういった途端、肺のなかまですうっと青空が満ちる。ひどく愉快だ。シリウスは明るく声をたてて笑った。なんて楽しいのかな、秘密は世界をキラキラと輝かせる。これも魔法だ。まだ知らない魔法が、この世界にたくさんあることが、シリウスには嬉しくて仕方がなかった。
 天気雨の日、若葉の下に立ってを呼べば彼女は紫陽花の葉を持ってきた。それを耳に当てると雨の音がポロンポロン、蜘蛛の巣を弾いてハープのように鳴っていたりだとか遠くの雲の切れ間で光がキラキラと高く澄んだ音を立てるのだとか、木の幹ががやがやと歌う音が聞こえた。世界は音楽でできているのよ、ってが歌う。確かにそうなんだろう。キラキラキラってやさしいメロディー。なつかしくって涙が出そうな、三拍子のワルツで世界は呼吸している。

 だからだろうか。だからかな。
 その日は雨だった。土砂降りの雨。はどうしてるだろう、ぼんやりそんな風に考えながら、シリウスは分厚い魔法書をめくった。もうずいぶん、なにかを傷つける魔法を使っていない。最近やたらと、屋敷僕には懐かれた。(坊ちゃまは、お優しくなられました私は感激でございます!)が教えてくれるのは、どうすれば世界の音楽が聴けるのかとか、どうすればもっとどろんこになって遊べるかとか、どの木に登ればもっと遠くが見えるかとか、怪我をしたらどの葉を揉んで擦り付けるといいかとか、どの花の実がおいしいかとか、そんなことばかりだった。噫そしてシリウスは、そんなどうでもいいようなことが楽しくて楽しくて仕方がないのだった。最近彼が考えてばかりいるのは、どうやったらを喜ばせることができるのかそればっかりだ。この前雨上がりに虹をかがったら、あの小さな女の子はそれはひどく喜んだ。
 シリウスは少し口の端に笑みを浮かべて、本を閉じた。重たい音がして、水の底になにか投げ込んだような響きが書庫に響いた。シリウスはどきりとする。暗い書庫。分厚い革張りの本たち。床に落ちた黒い影。
「あ、」
 思わず一歩後ずさった。暗い暗いこの家。この家の響きを、聞こうなどとは思わなかった。(これは、)深く暗く物々しく、他を威圧するような堂々として。
グラーヴェ!マエストーソ!ペザンテ!エネルジコ!そんな檄が聞こえるようだ。歌え!これは行進曲、進軍の歌だ。他を倒す征服者の勝利と歴史を歌うなんて重たい音楽だろう。テューバがオオンと竜のように唸っている。もっと強く!もっと重く!大きく!何者にも匹敵しえない!見よ!讃えよ!お お す ば ら し き わ れ ら の 
聞くに堪えなくてシリウスは駆け出した。広い廊下高い天井。彼はこの城の王子だった。彼だけにこの城は我儘だった。耳を塞ぎたい。主旋を彩るのは鮮やかな断末魔。ああ、ああ!
「兄さま?」
レギュラスがぽかんとシリウスを見ていた。杖の先に、屋敷僕がひれ臥している。
「おまえ、」
「ああ、見てください。僕もやっと麻痺呪文を覚え」
 (噫、)


 わっと火の着いたようにレギュラスは泣き出した。兄にぶたれたのは初めてだった。頬がジンジンと痛む。きっと血が出てるんだ!レギュラスは思った。こんなに痛くて、こんなに熱い。大怪我だ。ああなんてことだろう!
「母さま!母さま!」
 泣き喚くレギュラスと蹲ったままの僕妖精が他の僕たちに運ばれていくのを、シリウスはじっと突っ立って交互に眺めてた。レギュラスには兄が何を考えているかなんてさっぱりわからない。麻痺呪文をせっかくつかえるようになったのに!出来が悪かったのか?それとも?
「兄さまが僕をぶった!ぶったんだあ!」
 わんわんとレギュラスは泣き続ける。
 シリウスはじっと黙っている。


「シリウス、それはとても幸運なことなのよ。」
 シリウスの手のひらをキュッと握って、アンドロメダはそう言った。
「シリウス、貴方は大切にしなくてはいけないわ。貴方のその妖精を。」
 もちろん誰にも、私にだってその名前を教えたりしては駄目よ?妖精は言葉の力で生かされているの、だからその名は本当に、妖精の命なのよ。貴方の妖精は、あなたに彼女自身の本当の命の名前を教えてくれたんだわ、それは、本当に、特別で、幸運なことなのよ。
 シリウスは頷いた。今ならアンドロメダ、あなたの悲しい微笑の意味がわかるからだ。正しくあれと教わってきた。時期当主の名に恥じぬ、威風堂々として何者にも動かされぬ、強き者となれと。その責務を果たせと。お前はそれに足りる、魔力と容姿と力と才を持ち合わせて生まれてきた。お前の下に人は平伏すだろう、お前の下に人は集まるだろう。お前の、お前の。
 レギュラスをぶっても、怒られたのはレギュラスだ。ブラック家の男児が、大声で泣くものではないみっともないと父親に一蹴されてお終いだった。母親は、兄さまになにをしたの、と困った風に尋ねただけだった。小さな拳を白くなるまで握って口をぶるぶると引き結んでいた、まだあの小さな弟。その目の強い怒りと憤りに、シリウスは終始何も言えなかった。言葉が見つからなかったのだ。なんとあらわして良いのか分からなかった。彼の気づいたことを。
 最近少し落ち着きが足りない、そうとだけ父はシリウスに言った。失望させるな、励め、と言った。ああそれがほんの数時間前までシリウスの誇りだったのだ。それに答えることが彼をこの家の中で王にした。しかし。
「幸運を手放しては駄目よ、シリウス。」
 優しく微笑む従姉に頭を撫でられてシリウスは思う。や、アンドロメダや、小さなレギュラスや。そんなもののために励むなら、どんなにかしあわせだろうに。まだ形にはなりきらない、そんな文章にはなりきらない、漠然として予感めいたものを。



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