(星の少年よ)
(見よ)
(その遥か彼方ずっと前を見よ)

「なあ、。」
 シリウスの少し固目の声の響きに、妖精は不思議そうに顔を上げた。シリウスは紫陽花のトンネルの下で小さく膝を抱えている。しとしと雨が降っていた。大降りの紫陽花の水色と紫と桃色は、ぱんぱんにはちきれて砂糖菓子のようにほろほろ零れてしまいそうだ。はシリウスの肩に座って雨だれを見ていた。
「どうしたの、シリウス?」
 シリウスはついと顔をのほうに向けた。鼻の先にある小さな顔をじっと銀の虹彩で眺めて、シリウスは困ったような曖昧な表情を浮かべた。
「僕、」
「うん?」
「僕、は。」
「うん。」
 雨がしとしとと降っている。9月の雨は細くてそしてやわらかだった。シリウスの髪がしっとりとびろうどのように濡れている。
 シリウスは少し言葉に詰まってを見た。が首を傾げる。その背中の翅をシリウスはみて、もう一度の顔を見て、その茶色い目玉を見て、そしてためらいがちに言った。
「僕は、わかった。」
 なんのことだろう、っては首を傾げる。何を言い出したのかわからなくって、とりあえず頷いた。シリウスはじっとの目を見たまま話した。睫がの顔のすぐ前で瞬く。その度にシリウスの目玉の銀がチラチラと光って、(星だ。)とは思った。この少年は、もしかしたら内側に銀の星を飼っているのかもしれない。目玉は内側の覗き窓だ。だからこうして、目玉を覗けばその星が見える。そうなのかもしれない。は少し微笑んだ。
「僕はなぜ最初にが僕のことを怖がったのか、それがわかったんだよ。」
 がきょとんと、目を開く。それをすぐ目の前で、シリウスはなんだか祈るような気持ちで見つめてた。
 それとは逆に、はふぅわり真っ白な牡丹がほころぶみたいに笑った。そう、と歌うようにつぶやいて嬉しそうに笑った。間違ってなかった、シリウスはそう思って嬉しくなってにっこりと笑う。ちょっと額を下げて妖精の頭にくっつけたら、彼女は嬉しそうな笑い声を上げてその鼻先をシリウスの鼻先にこすりつけた。くすぐったい。シリウスが笑う。雨はやさしくあまかった。


「アンドロメダ」
 いつもよりずっとひかえめに名前を呼ばれて、彼女は従兄弟を振り返った。長い廊下を彼女はドレスローブの裾をきれいに引きずって歩いていた。きらきらと深い藍の布地に星が光る。
「どうしたの、シリウス?」
 従兄弟はつま先を眺めたまま少しもじもじとした。それは珍しく幼い仕草で、アンドロメダは優しく目を細める。そのままゆったりとした動作で、従兄弟の前まで歩くと膝を折った。髪の毛がふうわりと垂れて、彼女の美しい横顔を隠した。
 従兄弟がぱっと顔を上げる。
 その顔は、見たこともないくらい、一生懸命で、それでいてあどけなかった。そこにはひとりの少年がいた。まだ自分の役割を持たない、ただの少年だ。そして、ただの少年こそ、この家には今までなかったものだったのだ。心の奥の奥で、彼女が願ってやまなかったもの。

「アンドロメダは、…僕が、優しい人間になったら嬉しいか?」
 従兄弟の目。銀の目。

「アンドロメダは、その、僕が、…父上とか、母上とか、家とか。そんなの関係なしに、本当に、ただしい優しい、人間になったら、嬉しいか?」
 銀の目、星の目。
 アンドロメダは心のそこから微笑んだ。従兄弟がぽかんとして、彼の妖精とおんなじ笑い方だなんて呆けてるのも知らないで。うれしくってうれしくって思い切り。
「…もちろんとってもうれしいわ。」
 少女の瞼の裏に恋しい人が思い浮かんだ。
「うれしいわ。」
 囁くように噛みしめるように、彼女はもう一度言った。安心したように微笑むただの少年を、いとおしい気持ちで見つめながら。
「…ねえ、シリウス。あなたに聞いてほしいお話があるのよ。…まだ誰にも内緒にしているのだけれど。」
 あなたにはいちばんに知ってほしいの。星雲は微笑んだ。


 小さな少年が、地べたにペタンと座り込んで、行儀も悪く両足を投げ出したまんま小さな背中を丸めてうつむいて、ブチブチと立派な絨毯の毛を無心に毟り続けている。ブチブチという音が、暗い部屋に小さく、響き、僕妖精は暖炉の隅で心配そうに心細げに、少年の背中を伺っていた。
 少年は鬼気迫る無表情のまま、小さな指先で絨毯の毛を毟り続ける。あたりには赤い毛がたくさん散らかっていたが彼はそんなこと気づきもしない。その間にずっとなにか小さく呻いている。
「兄さまのせいだ兄さまのせいだ兄さまは変なんだちっとも僕と遊んでくれやしないしメダと話してばっかりで、」
 僕が兄さまの弟なのに、と続けながら少年は絨毯を痛めつける。
「兄さまは僕をぶった」
 ひたりと手が止まった。
 できのよい兄、並の、ぱっとさえない弟。いつもそうだった。レギュラスだってできないわけじゃない。兄に似て美しく兄に似て良くできた。しかし兄のように黒を持っていなかったし、人を惹きつける力もわがままを許される魅力も親に愛される何某かの要素も持ち合わせてはいなかった。兄には勝てなかった。いつでも。その兄を愛していた。兄には勝てないから。だから兄が好きだった。面倒見の良い彼の兄。悪戯が好きな彼の兄。難しい呪文を使いこなす兄。そおっと頭をなでてくれる兄。肉親の中でそんな優しいスキンシップをとるのは彼くらいのものだったのに。
「兄さまは僕をぶったんだ!」
 ガシガシと小さな桜貝の爪で少年は絨毯を掻き毟る。兄さまなんて嫌いだ!大嫌いだ!!部屋は暗い。暗い。


 その日彼の家はまるでバケツにたっぷり魚の臓物を入れて、それを家の真上でぶちまけた様な、そんな大変な騒ぎだった。大変な醜聞だ!ブラック家の恥だ!!!上へ下への大騒ぎを、レギュラスは子供部屋に押し込められて、ドアの隙間から大人たちがせわしなく動き回っているのを眺めていた。長い足があっちに行ったりこっちに言ったり、婦人たちのするどい声や、疲れたような男の声。何が起こっているのか、小さな少年にはなんの説明もなくて、彼はただただ大人たちの様子をわずかに興奮した面持ちで眺めていた。
 彼の兄も同じように子供部屋に押し込められてはいたが、彼のようにドアにへばりつくこともしないで、ただ大きな肘掛け椅子にたっぷりと腰掛けて本を読んでいた。まだ彼の習っていない、ルーン文字で書かれている。
 なんだかその余裕たっぷりの、自分には関係ない、とでも言うような仕草は、弟をひどくもどかしい気持ちにさせた。だって彼の目の前には事情を知っていて彼を邪険にする大人たちがいて、同じ境遇であるはずの兄は、まるで全部知っているとでも言うかのように、彼の後ろで本を読んでいるのだ。いつもなら、どうしたのかな、ってふたりで顔を寄せ合って、それで兄のほうがよし僕に任せろ、って自信満々に大人たちの輪に入っていってくれるはずなのに。
 ちらちらと兄のほうも盗み見ていると、ふと、その兄が顔を上げた。前髪から覗く冷たいつくりの美しい顔が、ひたと彼を見据える。その目の黒に混じった銀に、彼は射られたようになってしまって肩をすくめた。
「――が、」
 兄が何か言った。少年にはあまり聞き取れなかった。え?と聞き返すと、兄は少し不思議な微笑み方をした。その表情は、ずっと後々まで少年の頭の隅にこびりつくことになるのだけれど、その時は不思議に思っただけだった。だって変だ。泣き出しそうに、苦しそうに、どこか怪我でもしたみたいな目玉と眉をしてるくせに、口端だけはやさしくうっすらと微笑んでいるのだもの。
「アンドロメダが家を出たんだ」
 家を出る、外出とは違うんだってことは、なんとなく彼にも通じた。
「…どういうことなんですか?」
 兄がまたあの顔で微笑む。
「もう戻らない」
「なぜ?」
「この家にいてはアンドロメダのやりたいことができないからだ」
「家を出るって、…つまり、…じゃあもう家族じゃなくなるってことですか?」
「…少なくとも父上や叔父上や…大人にしたらそうだろうな。」
「じゃあメダは家族より自分のやりたいことを選んだっていうんですか?」
 それは信じられないことだった。ブラック家、我々の由緒正しきこの家と血筋のため。それが彼らに生れ落ちたときからの生き方であったのに。幼い彼はそれ以外があるだなんて想像もつかなかった。
「どうして?」
 彼はアンドロメダを思い浮かべた。いつもおっとりしていて、のんびりしているイメーヂだ。彼は彼女の姉たちのような、はきはきと話し快活で自信に溢れた方が好きだった。彼女はいつも、彼の前では困ったように微笑むばかりだったからだ。その彼女が、こんな風に大人たちを大慌てさせるなんて一大事を引き起こしている。
 信じられない。そればかり浮かんだ。
「大切なものができたから」
 兄はそおっと、でもはっきりと言った。大きな窓の白い逆光でその表情はもう見えない。
「だから、僕らを捨てるんですか?」
 弟は言った。理解できなかった。

「違う」
 その兄の言葉も、彼にはもうずっと後になるまでわからなかった。

「僕たちが捨てるんだ」


 だから知らない。彼は知らない。再びドアの向こうに目を凝らした後に、ハタリとルーン文字に誰かさんの涙がにじんだことなんて知りもしない。

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