(大きな人、優しい人)
(楽園の庭師)
(園に住まう美しい人々)

 秘密の手紙がそおっとそおっと。いつの間にかシリウスの枕の裏に忍びこんだのはまだ早い夏だった。
 朝目を覚まして眠い目擦って、ふかふかの羽枕、ふと耳元でカサリと音がした。なぜだろう、その乾いた音を聞いた途端シリウスの小さな胸はなにか素敵な匂いを嗅ぎとってドキドキし始めたんだった。
 そおっと枕の裏に手をいれる。指先に触れたのはごわごわした紙だ。白いのだけど、すこし太陽を吸って黄ばんでいて、雨を吸って厚ぼったかった。
「…なんだ?」
 重たいカーテンの隙間から黄金の蜜色した光が一筋、指し示すみたいにちょうど垂れてた。太陽からの手紙かしらなんて、思わずドキドキしてみたりして。まったく眠っている間、枕の裏に差し込まれたのに気がつかなかったのだもの。ひょっとしたら、枕の裏のおばけのしわざかしら。
 シリウスは自分の妖精のことを思い浮かべてみる。あんなにも光に包まれた優しい生き物がこの世界にはいるのだもの。枕の裏のお化けだって、北風の精だって、悲しいセイレンだって、いるのに違いなかった。
 折り畳まれたその素朴な色合いの紙を開く。静かに静かに。強そうな紙なのになんだかシリウスには吐息でだって崩れてしまいそうなやわいものに思えたんだ。だからそおっと。呼吸すらはばかるように。
 シリウス、君の運命を開く手紙。


 まだ早い夏だ。緑は黄色がかって陽に透けて辺り一面緑の乱反射でむせかえるくらいだった。
 シリウスは細い足で緊張しながらその庭の前に立っていた。白いシャツも靴下も、少し日向に溶け出しそうだ。彼の髪と半ズボン、革靴だけピカピカと黒い。目玉はいっそう銀を濃くして日差しの中見えた。
『ここが秘密のお家?』
 シリウスの左胸のポケットから顔を覗かせて、が尋ねた。うん、と頷きながら、シリウスは改めてその庭を眺める。
 緑と花で洪水の、小さな小さな、シリウスからすれば箱庭のように小さな庭。5月の光をいっぱいに浴びてきらきらと今まで見たどんな庭より緑が鮮やかに匂いたっている。その緑を盛った中に、小さな白い―彼からすれば小屋、と形容するしかないような――おそらくこれが話に聞いた家なのだろうが――が窮屈そうに収まっている。
「でも、こんな狭いとこに人が住んでるのかな。」
 なんとなく心配になってそう呟くと、がポケットの中で陽気に笑った。
『小さなふたりが住むには十分。シリウスのお家が広すぎる。』
 小さな、という形容詞をほんとに小さなその妖精が使ったのがおかしくて、シリウスはすこし笑う。
「そんなもの?」
『そんなもの。私にしたらこの家は素敵な雲のお城。』
「じゃあ僕の家は?」
『大きな大きな黒曜石の山の群れ。』
 手のひらに乗るようなの視線はどんなものなのだろう、見てみたいな、なんて考えているとが嬉しそうに庭の一点を指をさした。
『しろいばら!』
 小さなつぼみが幾つも黄緑の中にころころと散らばってなんともかわいらしい様子だ。他にもさまざまな季節の花が生き生きと咲き誇っている。
 まじまじと見つめていると、サアアアアアと庭の中から、遠くの滝のような音が聞こえ出した。耳に染み入るようないい音だ。ポケットでが、うっとり目を細める。
 そおっとシリウスが、ハシバミの茂みから顔を覗かせると、大柄なまだ若い男が一人、庭の黄緑の中に立って杖を振るっていた。杖の先からは雲が立ち上り、細かい雨を降らせている。それが葉に当たっては砕け、この音をたてていたのだ。小さな虹がいくつも出ている。
(魔法使いだ。)
 馬鹿だな知ってるはずの魔法だし、魔法使いなんて当たり前なのに、シリウスはなぜかなその時とてもそう思ったんだった。
(…魔法使いがいる。)
 いくつもの虹が宝石みたくきらきら光るのに息を詰めたちょうどその時、男がふっと振り返った。
 ひょっこり覗いていたシリウスを認めると、その目がぱちくりと開かれて、それからくしゃりと笑顔になった。
 シリウスはなんとなくばつが悪くって肩を竦める。
 けれど男はちっとも気にしていないみたいで、嬉しそうににこにこしながら、よく着たね、と大きな声で笑った。
「メダ、アンドロメダ!君の甥っ子が着いたよ!」
 おっきな声、とポケットの中から妖精のくすくす笑いが聞こえて、シリウスは少しほっとしてしまった。




 
シリウスへ

   朝8時   ひとりで 来られるかな?
   ばらの庭には  白いばら
   壊れた垣根があるはずだ
   抜け出しておいで、お茶会はすぐに
   緑の丘  行ったことがあるかな?
   欅の木  登れるかな?
   一番下の枝  うろのなか
   旅の鍵は魚の口の形。
   手紙を書いたのは誰だ?
   ベルベットのばらは嫌い
   内緒話はお得意
   星の雲もまた魚の口の形
   触れれば唱える言葉はひとつ、
   下から順に、ロバ 犬 猫 鶏
   陽気な音楽隊の名前を知ってる?




 帰り道の夕暮れは穏やかにあたたかかった。出された紅茶の色に似ているな、とシリウスは少し思う。
「なあ。」
 呼べば妖精はポケットの中で笑った。
 大事にしなさいと、アンドロメダに言われた、シリウスの宝石だ、彼の宝物、あの暗い家の光。
 僕は、と言おうとしてシリウスは口を噤んだ。俺、と言う言葉を今日彼は初めて知ったので。自分のことを俺と形容した男は、魔法使いだった。
「おれ、」
 なんだかしっくりとこない。もう一度下唇を少しなめて言い直す。
「俺は、」
 今度はすとんと飛び出した。少し背が高くなったような気がする。シリウスは、へへ、と笑ってみる。なんだか少しばかりくすぐったかった。
 アンドロメダはしあわせそうだ。ちっともあの後ろめたそうな笑い方をしない。ただ家の話が出た時だけ、うっすら儚く笑ってみせた。
 シリウスにはなんとなくわかりかけてたから。なにがアンドロメダの笑顔を曇らせるのか。知らない知らないと、父が母が家がシリウスに目隠しするもの。目隠し?いいや彼らには見えていないのかもしれない。シリウスにだってまだぼんやり見える気がするだけだ。妖精の羽、透かして翡翠色の靄の中、ぼんやりぼんやり。
 だから大切にしなくちゃならない、離してはならない。まだ見えないから。アンドロメダに見えてシリウスに見えないもの。あの光の庭の作り方。
 、僕の、俺の、俺の。妖精だ。魔法使いも言った。大切にしなきゃな、って。おっきな手が頭を撫でた。
「俺はどうしたらあんな風になれるだろう。」
 言葉足らずだったけれど、相変わらず妖精には通じたようだった。シリウスの肩に舞い上がって腰掛けると、が歌うように囁く。
『シリウスなら、きっと大丈夫。』
 いつか私に虹をかがって見せてくれたもの、が微笑むと夕日もすこし微笑み返したようだった。紅茶の色した光が、黄金を溶かした太陽の周りでキラキラキラキラ渦巻いた。
 それはあんまりきれいで、だから、きっともうだいじょうぶ、そう囁いたの声は、シリウスには聞こえなかった。


 いつから兄が変わってしまったかって言われると、彼にははっきりと答えることはできない。
 ただ、つい数ヶ月前だ、兄が1日行方知れずになった。別に珍しいというわけではない。兄は時々、授業も昼食も放り出して勝手に遊びに出たものだから。
 でもその日は少し違った。なにが違うかと言われると、やっぱり彼は困ってしまう。けれど、違った。違ってしまったのだ。
 ずいぶん前は、彼の兄さまは、頼んだら失神魔法や麻痺呪文や、そういった類の難しい呪文を見せてくれた。けれどいつからかな、見せて下さい、と頼んでも、また後でな、となんだか曖昧に話を濁らされてしまうのだ。最近は、頼むだけで兄の機嫌が悪くなる。はっきり嫌だと言われることが、こんなに悲しいことだなんて、弟は知らなかった。
 今までとは違う何かが、兄の頭の中に住んでいるのだ。彼にはわかった。
 もう来年には兄は学校へ行ってしまう。どうしてこんなにも、この家に置いて行かれることを不安に思うのかな。…よくわからない。
 ただ悲しかったよ、なぜだかなんて幼い彼には言葉にすらできなかったけれどそれでも。兄だけだったからだ。勉強しろと言わないのも。彼の頭をこわごわそおっと撫でるのも。
 いつだって正しくそして愛されているに違いない傍若無人な彼の兄。すべてが彼にだけ頷く。
 言葉遣いが悪くなったと、つい最近叱られていた。
「俺はそんな風には思いません。」
 心なし背が伸びた気がする。開いたままのレギュラスの茶色い目玉は置いてけぼりだ。彼は兄ほど背が伸びない。
 なんのせいなんだろう。なにが兄を変えてしまった?僕の、僕の。
 庭はあまりに明るすぎた。彼はじっとテラスの日影に立っていた。あまりに明るい緑だ。目に滲んで涙になってしまいそう。
「兄さまなんて、」
ぐし、と鼻を少しすすったら目の奥がツンとした。明るい明るい緑だ。大嫌いだよ、忌々しい。
「あ、」
 目の前を翡翠色した光が掠めた。
『泣いてるの?』



<< >>