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朝、自然に目が覚めた。 こんなことは珍しい。 彼は、眠ると布団の中でまんまるになっている癖があるので、今朝も目を開けたらやさしい暗闇の中だった。蒲団の隙間から外の光が漏れ込んできていて、その光の種類でまだ朝早いのだとわかる。 めずらしいのう、と自分でも、彼は呟いてみる。 目覚まし三個で、やっと起きる。ぜったいのぜったいに、遅刻してはいけないときは、なぜか自然に目が覚める。それに寝坊しても、彼は遅刻することは少ない。その辺りの帳尻を、合わせるのは昔からうまかった。 起き出す前の、とろとろとした眠りはいつだって、きっと誰にだって好ましいものだろう。うっそりとしたまま、指先からやわらかい泥になる。ねむたい。 しばらくもぞもぞと丸くなってから、布団から顔を出して、目に入ったのは古い木の天井。一人暮らしのマンションの、白い壁ではない。一旦思考が停止する。おや?どこじゃっけのぅ。 それからのっそり起きあがって、彼はガシガシ頭掻きながらあたりを見回した。畳に落ちる光と影の、懐かしい色。埃のにおい。わずかに空気の中に舞って、光に粒子が照らし出されている。朝日は琥珀の色をしているのに久しぶりに気がついてから、ああ、祖母の家に来たのだと思い出す。 縁側から鳥の声が聞こえてくる。すずめ?雲雀?つばめ?とりあえずカラスでないのはわかる。しかしそれにしても、それくらいしか、鳥の名前を知らない。 なんの声かのう。普段の自分からはびっくりするくらい、素直に起きあがって障子をあけてみると、白と黒の小鳥が飛び立っていくのが見えた。名前も知らない小鳥が、飛び去った空は今日も真っ青な色、している。海の青をうつして?星の色をうつして? あの鳥なんちゅう名前じゃろうか。 考えながら、背伸びをし、鳥の声を思い出す。ああいうのを囀る、というのだろう。鈴を転がすような声をしていた。隣家の樹木に目を凝らしても、もう小鳥は見当たらなかった。 表からは海のにおいがしてくる。梢が揺れて、蜜柑の花。今日も彼の塔には気持ちのいい、ひとりの風が吹いている。知らぬ間に舞い込んできていた白い手紙は、鳩に似ている。 今日は海にいこう。 もういちどムンと伸びをして、彼は塔からひょいと降りた。昔連れた犬はいない。行ってきますを言う祖母もいない。しかし不思議と和やかに、寛いだ気持ちでいる。海は青く、きっと凪いでいるだろう。 立て付けの悪い引き戸をなだめすかして、鍵をかける。かけなくても別に構わないのだけれど、なんとなく。 ズボンのポケットに財布はちゃんと入っているし、貴重品と言ったらそれくらい。白いシャツは襟まで糊が効いて、清潔なしゃぼんのにおい。少し襟を立ててにおいをかいだら、しゃぼん玉、持ってくるのを忘れたの思い出す。 ちょっとも悩まず、彼はくるりと回れ右して、来た道を戻った。 大人になってもやめられないもの、さぼりと嘘つき、しゃぼん玉。 彼のたったひとつの荷物の旅行鞄のポケットには、黄緑色したプラスチックの容器に入ったシャボン液と、黄色いストローが入っている。ずいぶん小さな荷物だと、驚かれそうなものだけれど、大事なものはほとんどそこに入ってた。引越しすることが昔っから多かった彼は、やたら荷造りと、物の整理と、それから捨てるもの捨てないものの選別がうまい。捨てることにためらわず、まず身につける以外の物をあまり買わない。 彼の荷物は使い古された革の鞄。それからなぜだか、ラケットも持ってきていた。 前日に荷造りしていた時、ふいに祖母の家の前の狭い道で壁打ちしていたの思い出して持ってきたのだ。休暇は長い。ひとりでたいくつになったら、ちょうどいい暇つぶしになるだろう。 シャボン玉セットをジーンズのもう片方のポケットに突っ込むと、なんとなく、ラケットも手にとって外へ出た。打ち合う相手もいないしボールもない。けれど久しぶりに握ったグリップの感覚が、しっくりと自らの手のひらに馴染んで、不思議に落ち着くのに驚いた。確かにラケットは、塔のてっぺんにいつでも取り出せていつでも見えるようなところにおいてある。赤いラケット。まったくあれだけおもしろくって、あれだけ夢中になったもの。だのに社会に出てからは、すっかりご無沙汰だ。今でもブラウン管の向こうで変わらずテニスをしている後輩もいるのに、今や自分はサラリーマンだものな。懐かしい。 ちょっと笑って、引き返してきた道を再び歩く。5分も歩けば潮騒が近づいてきた。うんと長い両腕を広げて伸びをしてから、ああ、鍵かけ忘れた。 ちょっと振り返って、まあいいか。 浜辺へ続く、草の生えた砂の坂道を、塔のてっぺんを吹く気持ちのいい風に吹かれながら、彼は下ってゆく。 潮騒が聞こえる。彼の白い髪を揺らして、海からの向い風が吹いている。 |
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