「650円です。」
 安かった。サービスかとも思い、チラリとレジの横に書かれたメニュー表を盗み見たが、その値段であっている。珈琲がおまけでついて、このお値段で、あのお味は、都内ではなかなか、というかめったお目にかかれない。
「…ごちそうさん、」
「ありがとうねー、電話もびっくりしたけど、まさかにおくんに会えるとは思わんかった。」
 が笑う。
「また来てね。」
「おう、ちゃんと仕事せぇよ。」
 しとるよぉ、とが笑って、彼もちょっと口端だけで笑って背を向けた。白い髪のえりあしは短い。昔はしっぽのように長くて、赤いひもでひとつにくくっていたのだけれど、さすがに就活のときに切ってそのままだ。また伸ばしちゃろうか、なんて関係のないことを考える。
 少し重たい木の扉。ガラスのベルがチリンと鳴った。

 またきてね、か。
 しかし本当に、小学生みたいな会話だ。また、があるのだろうか。でもうそつきだから、とりあえず彼はおうと答えた。まだしばらく休暇は残っているし、また、があるなら彼次第。安いし、いい店だった。昼飯はここで食べてもいいかもしれない。さすがに明日から月曜日、も仕事でしばらく昼間はいないだろう。
 いないほうがいいの?見えない犬が首を傾げる。
 別にいられるのが迷惑ってわけじゃない。
 それに彼は頭の後ろを掻いて答えた。
 ただ、なんとなく、はずかしいような、こまるような、気がするじゃないか。に会いに行っているみたいに思われるのは嫌だし、おしゃべりが楽しくないわけじゃないけどひとりで窓辺でぼけっとするのも好きなのだ。でものおしゃべりは、思わず笑って相槌打ってしまあうほど懐かしくやさしい。かといって、とても久し振りな上に付き合いだってほんのわずかなものだったから近況をあらかた喋ってしまえば二人には共通の話の種もなにもない。無理に従業員と客という距離を作り出すのも、会話がないことが苦痛になるのも嫌だった。かといって小学校の休み時間みたく、いつまでも机にくっついて話をされたんじゃあたまらない。
 誰もが聞きたいときに、聞きたい声を聞かせてくれればな。塔の上で足をぶらりとやる。
 見たいものだけ見たいし聞きたいものだけ聞きたい。それは人間の社会で生きてゆくのにあんまり我儘が過ぎるって知っているから、見たくないものだって必要があれば見る、聞く。話す。
 それでもやっぱり構ってほしい時だけ、かまってほしいと思う、彼はずいぶんわがままで、猫に似ていた。
 あれだろ、さびしい時だけそばにいてくれと、だ。わがままな歌、少年が塔のてっぺんでくちずさむ。
 いや、待て。そもそも何をそこまで、深く考える必要があるのだ。
 ただ小学校の同級生が、働いている店に行くってだけで、なにをそんなに考える。ちょっと、いや、かなり、がきれいになってたからって。
 チリンチリン。

「におくんちょっと待って!」
 ベルの音に振り替えれば、がエプロンのまま走ってきた。驚いて目をまんまるにしていると、ふふ、と笑われた。
「これ、おみやげ。」
 ビニール袋を渡された。
 正確には、ビニール袋に入った、新聞紙に包まれた、何か、だ。
「なんじゃあこれ?」
「におくんこれ好きじゃったと思うんじゃけど。あげる!せっかく久しぶりに会えたし、貝殻とかたくさんもらったけん、お返し兼お土産。」
 かえってからあけてみんしゃい、と年長者のようにが笑って歯を見せた。
「…どうもナリ。」
 また、"ナリ″?、とが笑う。
 今度こそまたねと手を振って別れた。しょうがくせいみたい。

 かえって新聞紙をあけると、店の外にぶら下がっていたガラスの球がでてきた。中は空洞。やはり空気が入って、海と空とが閉じ込められている。ご丁寧にぶら下げる紐もついていた。
 縁側にさっそくぶら下げてみる。
 太陽の光を集めて、青い光がちらちらと床に落ちた。やはり空と海の色、夏の欠片だ。彼の頬に、明るく青い影を投げる。ゆらゆら揺れる光は、本当に水面の乱反射。海の底、空のてっぺん、いったこともないのに思い出す。
 結構高価なものなんじゃあなかろうか。
 しばらく見とれてから、ふいに彼は思い当たった。ただ砂浜に落ちていた貝やガラスの破片のお返しに、こんなものを寄こすだなんて、損得勘定ってものが、なっていない。ランチの値段設定といい、珈琲のことといい、とクマの店主の顔を思い返して、彼はちょっと困って笑った。まったく。

『におくんこれ好きじゃったと思うんじゃけど。』

「…ん?」
 そこでふと、思い出して首をひねる。
 "好 き じ ゃ っ た と 思 う ん じ ゃ け ど 。"
 彼女は知っていた?やはりどこかで、彼はこのガラスの球が連なる光景を、見たことがあるのだ。
 真っ青なガラス球窓の外にいくつもいくつも連なって、青い光と影、海の底に似た乱反射―――どこで見たのだろう、なぜは、それを知っているのだろう。
「…思い出せん。」
 ガラス球が揺れた。
 なんだか思い出せない彼を、ちょっと笑っているようだった。





>>