結局やることがなかった彼は、その次の日の月曜日もぶらぶらと浜辺を歩いた。
 仕方がない。目的があって、帰ってきたのではない。いつものさぼり癖と、なんとなく、ここの海がみたくなったから。それなら浜辺を歩くのは、その漠然とした目的に適っている。
 ぷらぷらと歩きながら、どうでもいい考え事。
 そう言えば昨日はシャボン玉吹くのを忘れた。ふいに気がついて、忘れた昨日のその分も、とぷうわり、膨らませて歩いていると、今日は野球のボールを拾った。
 体育の授業くらいでしか縁のないスポーツだから、その白いボールをめった触ることはないが、相変わらずテニスボールに比べてずいぶん重い。バランスをとって、ガットの上をころころ転がすだけで、打ちはしなかった。こんな重たくて固いボール、ラケットで打てば肘を痛めるのは目に見えている。
 目的もなく歩いているうちに、やはり同じ浜辺の同じ道、夏の家へたどり着いた。そしてやはりちょうどよく腹も鳴って、なんとなく負けたような心持ちがしながら、彼は階段を昇った。
 やはり来てしまった。
 ううむとドアの前で一度腕組みをして唸って、それから彼は観念して手をドアノブに伸ばした。
 チリンとベルが鳴る。

「いらっしゃい。」

 クマの店主が声低く彼を出迎えた。少し眉を片方あげて、来たね、という顔をして。
 今日はちらほらと客がいる。ぐるりと見渡すと、窓際の席があいている。そこにしよう。日当たりもよく、風が通って、それでいて静かで、誰とも眼を合わさなくていい。今日の彼は、赤いポロシャツを着ている。白いラインがすっきりとして、赤いからといって派手な印象ではない。
 すぐに水とメニューとが、アルバイトだろうか、まだ高校生くらいの少年に運ばれてきて、彼はちょっとだけ悩む素振りを見せてから『今日のムニエルさん』を頼んだ。少年はちょっと口の端だけでその年代特有の照れているのか怒っているのかわからない顔で笑って、店の奥へ戻ってゆく。
 高校生くらいに見えるが、学校へは行かないのだろうか。
 今日は月曜日、自分と少年は、なにも関係がないのにそんなことを考えるあたり、自分もずいぶんと、つまらなくなったもんだ。塔の上から足を揺らして、靴を飛ばした。犬がさっそく、取りに走る。

 現実の窓の外に意識を傾ければ、その向こうの砂浜を幻の犬が駆けているのが見える。
 それを人は、おかしな、異常なことだと言うだろうか。そんなことは、どうでもいいや。ガラス球が、笑うようにさざめく。青い光と影。海と空の詰まった重たそうな宝石。きらきらだ。どちらも彼には、嘘で本当。犬が走る、靴のことなんてすっかり忘れて。
 ―――しょうがないのぅ。
 小さく笑いながら、ガラスのコップに目を落とす。透き通った水と氷。持ち上げて口をつけると、カラと鳴る。
 もう一度彼は窓の外に視線を戻すと、もう見えなくなった犬のことも忘れて、ガラス球を眺めだした。海と空の瑠璃色は、重なると晴れた夕焼け空ほどまっさおな紺碧だ。揺れる光と影の格子模様。懐かしい心地。
 そのままじいっと眺めていると、店主が手ずから食事を運んできた。

「今日はヒラメのムニエル。」
「…どうも、」

 そう言った彼を、少し笑って店主が見下ろす。
「…ごゆっくり。」
 懐かしいようなレコードの音。店主の声も、どこか懐かしい落ち着いた響きをしてる。
 渋い朱塗りの箸を取って、さっそくムニエルをひとくち。今日のスープは昨日と違って、赤い色をしている。噛むと口のなかに、ほわりと香草の風味と匂いとが広がった。なにぶんできたてで、少しばかり猫舌の彼には熱い。「…うま、」小さく呟いたのを、バイトの少年に遠くから見られた。件の笑い方で、ちょっと肩を竦められて、彼はそれに返してニヤリと笑った。
 まだまだつまらなくないかもしれない。

 食後には頼んでもいないのにまた珈琲がついた。
 運んできた少年が、「マスターがさんにつけとくから安心してくれって。」とちょっとおかしそうに笑って置いていったのだ。ちょっと目を丸くして、去ってゆく少年の背中を見送り、もう一度珈琲を見下ろして、お言葉に甘えることにする。昨日とは豆が違うのか、ほのかにあまい風味が舌の上に残った。やはりうまい。
 青いガラスの球を見つめているうちに、ふと気がつけばずいぶんゆっくりしてしまった。どうもこの球の連なる景色は、彼に時間というものを忘れさせてしまう。犬もすっかり待ちくたびれて、塔の影で眠ったようだ。
 今日の夕飯はなににしようか。
 この年になって毎晩親戚の家にたかりにいくのも気が引ける。しなびた商店街のスーパーマーケットを連想して、さてそろそろ帰ろうか。料理は好きでも嫌いでもないが、彼はほとんどなんでも器用にこなした。

 ムンと少し伸びをして、ぐるりと店を見回す。「ありがとうございましたー、」と少年が、やっぱりその年代特有の間延びした言い方で言う。それを受けてカウンターでは、クマの店主が待ち構えていた。
「君、覚えてるよ。」
 650円の50円玉、探している最中に、突然店主はそう言った。
 案外きれいな標準語だった。元来口数が少ない人間なのだろう。短い単語の羅列で、染み入るような言葉選び。その分少し、謎かけじみて。
「小さな頃のままだね。」
 忘れてしまったかなとそうクマは笑って、窓の外を見る。
 青く光るガラス球。いくつもいくつも連なって、空と海とを内包している。いつか見たクリアブルー。思い出せない。
「気に入ったのがあれば幾つでも持っていっていいから。」
「…はあ、」
 思い出せない。




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