「ただいまー!」
 帰宅したからにはそう声をかけるのが癖のようなものだ。家に誰もいないと知っていても、思わず言ってしまう。
 それに誰もいなくたって、ただいまと言えば必ず、「ワン!」とタビの元気な返事が――――ない。

 珍しいこともあるものだ。
 は少し首を傾げて、首に巻いたマフラーを解いた。いつもならただいまを言う前から彼女の帰宅を察知して、うるさいくらいなのに。今日は殊更に寒いし、小屋に入れてやっている毛布の中でまぁるくなって、眠ってしまっているのだろうか。
 そのままマフラーと鞄を玄関に置いて、庭に回る。
「タービー!」
 やはり返事はない。
 寝とるんかな。
「タビ〜?」
 散歩行こう?ひょいと犬小屋を覗き込んで、は固まった。

 ―――タビ。
 は思わず声のない悲鳴を上げた。タビは小屋の中で、ぐったりとして動かない。眠っているのではないことは、一目でわかる。おかしい。の声に反応しようと、瞼が震えるのだが開かない。力なく垂れた前足。後ろ足だけが弱弱しく床を蹴る。
 どっと体中の血管が、一気に開いたように血が巡り始めた。背中を嫌な、汗が流れる。
 どうしよう。
 頭の中が真っ白になった。母親はおばあちゃんの家に用事で帰っていて、今日は帰らない。父親も兄も、仕事が終わるにはまだずいぶんかかる。そもそも行きつけの獣医は市外にある。だけの力では、タビを連れてたどり着くことができない。
 庭から居間の時計を見やって、はさらにパニックになった。コチリ、とガラスを隔てているのに、その秒針の音が聞こえそうな気がする。

「どないしよう…!」

 頭の中が真っ白だ。
 どないしよう、それしか浮かばない。タビ、タビ。と呼びかけても、いつもなら元気にじゃれついてくる犬はピクリともしない。呼吸が浅い。息をしていないみたいだ。ふいに自分の吐く息が真っ白なことに気がついて、外がそんなにも寒いことにいまさら思い当たる。
 とにかく外は寒いだろう。
 中に、と思って、タビに触ると、ふにゃり、と妙にやわらかく、冷たくて、ぞっとして手を離した。はっと我に返って毛布ごと抱き上げると玄関から中に飛び込む。ありったけの毛布と、暖房器具をかき集めてきて点けた。毛布にくるまれて、タビは浅い呼吸を繰り返している。ぴくりと前足が震えて、生きている、しかしそれは、の心臓がはち切れそうな焦燥しか呼ばない。早く、どうにか、しなくては。
 ―――手遅れになるまえに。
 浮かんだ言葉にぞっとする。
 部屋の中は徐々にあたたかくなってきたというのに、の顔いろと手先は、だんだんと冷えていった。
 父親の携帯に電話する―――出ない。この時間はだいたい、いつかけても出ないことが多いのだ。兄のほうは?祈るような気持ちで受話器を握る。一回のコールが、やたら、長い。

『もしもし?』
「お兄ちゃん!」
『どうしたんや、仕事中は電話したらあかんて「お兄ちゃん!」
 の切羽詰まった声に、兄の声が変わる。電話の向こうから落ち着けと声をかけられながら、説明するうちに涙が出てきた。しゃくりあげながら話すの言葉を聞き取った兄が、『早退できるかわからんけど早退するし、ちょおまっとり。』険しい声で手早く電話を切る。
 タクシーを拾っても、電車でも、兄の職場から家までは50分はかかる。早退すると言ったって、それまでに時間もかかるだろう。どれくらい待てばいいのだろう。涙が止まらない。1時間?それとも2時間?

 すとんとその場にへたり込んだまま、は携帯を握りしめた。
 コチリカチリと秒針の音。タビの呼吸。すべての音が大きく聞こえる。どうしようどうしようどうしよう、はやくはやくはやく―――。どうしてこんなに、時間というのは緩慢に進むのだろう。
 早く帰ってきて。
「タビ、が、死んでまう…、」
 ふいに漏れた言葉に自分でもびっくりする。
 が小さいころに貰われてきたタビ。今ではもうすっかりおじいちゃんで、でも、今朝は元気だったのだ。行ってきますと言ったら鳴いて答えた。その前にニュースで、今日はこの冬初めての氷点下だと聞いた。やはり寒いから、誰もいなくたって家の中に入れてやるべきだったのだ。
 どうしよう。
 どうしよう。
 暖房がこんなについているのに、座り込んだ床が冷たい。
 誰か、誰か。とは携帯を胸の前で握りしめて目を強くつむった。
「…―――たろくん。」
 どうしよう。

 どれくらい経ったろう。ふいに手の中で携帯がヴヴ、と震えた。
 は肩をビクリと震わせる。
「もしもし!」
 兄かと思って反射的に通話を押した。
ちゃん?』
 一瞬誰だかわからなかった。
 どないしたん、と心配そうに受話器越しに聞こえた声に、は目を丸くする。
「しら、い、しくん?」
 受話器の向こうで騒々しい、楽しそうな声が聞こえる。



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