金太郎は件のお日様の笑顔でにこにこ立っていた。
「タビ、ほんま元気になってよかったなあ!」
 もちろんそれが心の底からの言葉だということは、疑う必要もなく確かなことで、も力いっぱい頷いた。その足元で、少し痩せて帰ってきたタビがゆったり尻尾を振る。きんたろくん、またきたんかぁ。
 心配かけてごめんなさいと、小さく謝るとびっくりしたように金太郎が首を振る。
「なに言うとんねん!あったりまえやろ!」
 どうしてかしら、その言葉がこんなに頼もしい。
 あれから一週間して、再び金太郎はの家の庭にいた。

 あの日、早退できるかわからんけど早退する、の言葉の通り、兄は信じられないスピードで帰ってきた。京阪間をいつもより30分金太郎が縮めたのと同じくらいの、あるいはそれ以上のスピードで、いったいどうやったのか、普段片道50分かかる道のりを、彼は40分で帰ってきた。たったの10分と侮ってはいけない。なにせその10分の中には、早退の許可を得て帰り支度をするまでの時間も含まれているのだ。家に飛び込むなり玄関の温かさに目を丸くした彼は、すぐさま愛犬と妹の様子を見てとると土足のまま廊下を駆けぬけ、台所のすぐ入ったところにかけてある車のキーを引っ掴んだ。
、車回してくるからタビ、ケージにいれとき!あと暖房全部消すんやで!火事になるからな!!!」
 語尾はもう扉の向こうに消えていた。
 ぼんやりと回らない頭で、それでも兄の指示通りにの体は勝手に動いた。物置からケージを引っ張り出して毛布とタビをそおっと中に入れ、片っ端から暖房を消してコンセントを引っこ抜く。そこで扉が勢いよく開いて、やっぱり靴も脱がずに兄が上り込んでくるとひょいとゲージを持ち上げた。無言のままの兄に続いて、真冬につっかけに慌てて足をつっこんでも後に続く。「鍵!!」とだけ後部座席にケージを固定する兄の背中から声が飛んで、慌てて乗りかけていた助手席から足をおろし、玄関に向き直る。
 そこからいかなドライビングテクニックが駆使されたかは、書かないほうが、よさそうだ。
 とにかくあっという間に京都の街中を出て、車が止まったのはもちろんかかりつけの獣医の前だった。いっかいもブレーキを踏まなかった。助手席で未だに目を丸くしているを余所に、さっさと兄がケージを抱えて歩き出すので慌てて後を追う。
 あれよあれよと言う間にタビは診察室の向こうに消えてしまって、気が抜けたように座り込んだ待合室のベンチで、ふいに携帯のうなる音に気が付いた。
 ポケットの中に放り込んだままのそれを取りだすと、画面を開く前から着信か受信を告げてチカチカと点滅している。
 やっぱり回らない頭のまま、画面を開くと、新着メール、2件。
 最初は"白石くん"で、いつもと違って本当に用件だけの、短いメール。
『金ちゃんが今そっち行くから』
 文字が頭の中で、一瞬意味をなさなかった。
 もう一度目を通して、それからゆっくり、理解する。

 きんちゃんがいまそっちいくから。

 きんたろくんが、来てくれる。どうしてだろうか、その文面にほっとしてしまって、ボタボタ涙が垂れてきた。「うわっ!」とちょうど診察室からひっこんできた兄が、驚いて声を上げる。
「だいじょうぶ、だいじょうぶや。悪いもん食うただけらしい。」
 タビが心配で泣いているのだと思った彼が、の頭をぐしゃぐしゃと乱暴に撫でる。
 その言葉に今度こそ本気で安堵して、ますますの目から涙が止まらなくなった。
「ふえ、」
「胃洗浄、やて。ちょっと時間かかるけど、今日中には帰れるて。」
 その説明を聞きながら、やっぱり涙が止まらない。困ったように兄が差し出してきたハンカチを目に当てて、それから沈黙、「………………きたない。」
 いったいいつのハンカチだ。ぐしゃぐしゃのそれは、きっと兄の仕事のスーツのポケットに、もう随分長いこと入っていたに違いない。なら返せ、とやっといつもの調子の兄の口調に、いやや、とが返す。ぐす、との鼻を鳴らす音。ハンカチは結局握りしめたまま目に当てられていて、兄はを横目でにらんでいる。ちょっと二人ともしんとして、それから少し、小さく笑った。
 最後の涙がころり、と目の端から落ちる。
「ああー!せや、職場電話せな!」
 兄のその言葉にぎょっとしてハンカチから顔を上げる。
「えっ、早退できたんちゃうん?」
「アホ!トイレ行ってきます言うてきたんや!」
 えええ、とが声を上げる前に、兄が大股で電話をかけに病院の外へ出て行く。ぽつんと取り残されて、それからハンカチの他に握りしめたままだった携帯に目を落とした。二件目のメール。"謙也くん"と表示されている。
 蔵ノ介のメールよりもしばらく遅れて届いていて、少し長い。じっと上から下まで目を通して、それからまたうっかり泣きそうになった。
「えらい長いトイレやなぁ思たわて叱られた〜、」
 ニヤと笑いながらかえって来た兄と入れ違いに席を立つと、「どこ行くんや?」
「きんたろくんに電話!」
「チャリンコ少年?」
 目を丸くする兄を置いて、病院の外に出る。空気はシンと冷たくて、火照った頬に気持ちいい。夕焼けだ。大泣きした目玉に、赤光が沁みる。この寒い中、あの子は自転車、サンダルで思い切り漕いでくれたのだろうか。
 何回目かでつながった電話の向こうにありがとうと呟くと、ちょうど沈みかけた夕日が、金色にくるくると光るところだった。



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