(ばらの垣根と庭師)


 彼の庭はそれは美しいイングリッシュ・ガーデンで、ばらの季節には行き交う人が思わず足を止めるほどだった。
 パチン、パチンと庭鋏を動かしながら、彼はよく育った花たちを見下ろす。散歩と食事を済ませてようやくおとなしくなった犬のためか、朝の庭は静かだ。赤に白に、薄いピンク。さまざまのばらが朝の光に開き出して、あたり一面香気にむせ返るほどだ。息が詰まる前に、夏の風が香りを遠くへ浚ってゆく。朝の光は白く、ばらの花を透過する。
『もうすぐ咲くわね、』
『楽しみねえ。』
 そうすぐ肩の横で、笑いさざめく妖精たちにちょっと笑顔を向けてから、彼は止めていた手を再び動かし始める。
 ばらの庭の一角に設けられたスペースに、特別な株が植えてある。
 それは彼の拳ほどもあるばらの苗で、咲けばぷっくりとまぁるい、やわらかい花になる。白い花びらを幾重にもかさねて、その白は砂糖菓子のようにも、ウェディングドレスの裾にも似ていた。長い時間かけて、ついに三株まで増やした。これからもっと増えて、この家の周りを囲めばいいと思う。
 枝の先に、まんまるなつぼみをつけて、その白ばらが眠っている。
『あんなに大きくてあまい花だもの。お酒を造ったらきっとすてきよ。』
『まあ!すてきな恋薬になるわね!』
 手を打ち合って、妖精たちが笑いあう。おいおい、誰に使うつもりだ?と眉毛を片方あげて尋ねたら、キャッと楽しそうに頬を赤くしてどこかへ飛んでいってしまった。

「…そりゃあよく効くだろうさ。」

 なにせ特別なばらだものだから。
 彼女のためのばらで、彼女のばらだ。
 パチン、と鋏を入れると、赤いばらが彼の手の中に身を倒してくる。こうやって何本か間引いてやると、新しい花が次々に咲くのだ。野生のものとは違う、造られた植物は、人の手を入れてやらねばうまく生きていけない。それこそ子供にするように、毎日しっかり様子を見て、世話を焼いてやる。
 ただ間引くだけではもちろん哀れだ。玄関に飾ろうと、もうすでに幾本ものばらが、剪定されていた。
 ふいに彼は顔を上げる。
 垣根の向こうに女の子がいた。
 この年頃の子供が起き出すにはまだ朝早いように思えたが、その青い目はぱっちりと開いていた。
 見かけない顔だな、と彼は思い、その少女の顔が、じっと自らの手元に向かっていることに気が付く。きちんとした服を着て、水色のワンピースに白い襟、きちんと髪をうしろで一つに結っている様子は、その母親の手入れが行き届いた様子が伺える。子供は庭と同じだと彼は思う。その表を見れば、庭師のことがわかる。
「…お前、どこの子だ?」
 少女は答えずに、じっと彼のばらを見上げている。
「…ばら、好きなのか。」
 こくん、と首が前後に揺れた。
 やわらかそうな頭のてっぺんを見下ろして、それから彼はちょっとわざとらしくため息を吐く。どこの子供だか知らないが、うちの子であることは間違いない。
 女の子の背丈では見えない垣根の向こうに彼が引っ込んで、女の子はちょっと不安そうに、残念そうにため息を吐いた。
『…だいじょうぶだよ。』
 ばらの葉の下から、小人がささやきかけてあげたけれど、気づかなかったみたい。
 しばらく女の子は、ばらをじっと眺めて、それからふう、とため息を吐いた。『あれ、もう行っちゃうの?』ちょっと肩を落として庭に背を向けかけた女の子の影の上に、大きな影がさっと映る。

「ほら。やるよ。」
 ちょっと困ったように、けれど笑いながら彼が言った。
 あきれるくらいやさしい顔だったけれど、女の子の目はそれよりも、彼の手の中にあるもののほに夢中で、気が付かなかったみたい。
「くれるの?」
 やっと小さく声を発した女の子に、彼が目線を合わせてしゃがみこむ。
「ああ。こっちはな、帰ったらすぐ、水にいけてやるんだぞ?」
 彼の玄関を飾る予定だった花たちだ。小さな花束になっている。それからもうひとつ、彼の手に下げられた白いビニル袋。ガサガサと音をたてて、小さな植木鉢が女の子の目の高さに持ち上げられる。
「…これはな、ばらの苗だ。」
 大きな青い目が、きらきらきら。
「これは特別な、この世で一等きれいなばらなんだ。そんなにばらが好きなら、自分で育ててみろ。ただこいつは、手入れが難しい。…調べたり大人に訊いてもわからない、こまったことがあったら訊きに来い。」
 そこまで言って彼はぐしゃぐしゃと、女の子の頭を撫でた。
 女の子はせっかくのポニーテールが崩れるのも気にしないで大きく頷く。

「…枯らすなよ。」

 やっぱり彼の顔はともすれば見るものが泣きたくなるほど、ひどく優しかった。それに気づかず、きっと一等きれいに咲かすわ、と答えた女の子の頬は、ばらのようだった。