(己を飼う人)


「アーサーさんも犬を飼っておられたんですか。」
 びっくりしたように目を丸くして、菊が姿勢を正した。彼の家に近づくにつれ、犬の声が大きくなり、玄関を開けるころには、家の背中のほうから大きく吠える声がしたからだ。隣の家から、ということではなさそうだ。これは主人を迎えてテンションがだだ上がりの犬の声、と愛犬ポチくんと長く連れ添っている菊にはすぐわかる。それに彼は、苦虫を噛み潰したような顔をした。急な来客の時以外は、朝あまりに早くからうるさいので、知り合いに預けるようにしていた。今回は菊の来国が比較的急だったのと、知り合いの都合が折り合わなかった。
 結果、犬は元気に裏庭にいる。
「…俺のじゃない。」
「おや、そうなんですか?」
「ああ。っつってもほとんど俺のみたいなもんだけどな…そうとう馬鹿犬だから、朝っぱらからうるさいと思うが…先に謝っとく。」
 いえいえ、私も朝は早いので、とゆったり菊は笑って、それからそわそわと家の奥へ目を移した。そわそわそわ。なんとなく、その目が子供みたく輝いているように見えて、アーサーははあとため息を吐く。
「…言っとくけどでかいしとびかかってくるし…気をつけろよ?」
「よろしいんですか!」
 ぱあっと菊の、顔が輝く。
 荷物を置いてからな、ともごもご口の奥でつぶやかれた言葉に対して、菊は素晴らしい瞬発力で、「客間はこちらでしたよね!?」階段を登った。
 家主がぽかんとしている間に、ダダダと廊下を走る音がし、ガチャ、バタン、しばらく沈黙、それからスーツを脱いで楽な格好になった菊が、ダダダと階段を駆け下りてきた。これが忍者の変わり身のジュツだろうか、と一瞬アーサーが目を見張るほどの着かえの速さだった。それ以上に、礼儀正しい菊が他人の家で音を立てて走るということ自体珍しい。

 彼の緑の眼にまじまじを見下ろされて、恥ずかしそうに、しかし朗らかに、菊がわらう。すみません、つい、テンションが上がってしまって。
 友人が楽しそうなのはうれしい。しかしそれにしても、こんなに嬉しそうな菊を見るのはめったなく、彼も思わず、少しわらう。

「さあ、参りましょう!」

 勝手知ったる人の家で、廊下を抜けて、キッチンを過ぎ、菊が裏庭へ続くドアを開ける。気をつけろよ、と彼が言うよりも早く、犬が嬉しそうに、とびかかってきた。
 ひっくりかえる、と身を固くした彼の予想とは逆に、菊は嬉しそうに、自分からも犬にとびかかった。嬉しそうに犬も吠える。お互いにとびかかると、お互いの勢いでどちらも倒れないのだと言うことを、彼は初めて目の当たりにして学習した。
「おっきいですねー!あはは、元気げんき、」
 顔中ベロベロ舐められながら、菊が笑い声をあげる。上手に体重を移動させてしゃがみながら、菊は姿勢を低くし、犬もそれに倣う。いつの間にかきちんと、座った菊の正面に犬も座って、嬉しそうに撫でられたり菊を舐めたりしている。
「おや、もう結構な年齢ですか?わあ、肉球もおっきいですね!やっぱり大型犬は触り応えが違う…んーかわいいかわいい、よーしよしよし…ってわしゃムツゴロウか!なんちゃって〜!いやーいいですね!モッフモフですね!アーサーさん、名前はなんと仰るんです?」
 いつになくテンションの高い菊と、そのたくさんの質問に目を白黒させながら、とりあえず彼も菊の隣にしゃがみこんだ。尻尾を振りながら客人に夢中の犬は、主人に見向きもしやしない。いつもはこの季節、じゃれつかれても暑苦しいだけなのだが、なんとなくさみしい…なんてことはないんだからなっ!彼は心の中で大きく首を横に振る。さみしいだなんてとんでもなかった。
「家へ来て12年になるから…、14、5歳くらいじゃないか?」
 もうそんな付き合いになるのか。
 内心目を丸くしながら彼が犬の齢を口にすると、「なんとまあ!」菊も驚きの声を上げる。
「すごいおじいちゃんですねえ!って私に言えたことじゃあありませんが。大事にしてもらってるんですね〜いいですねぇ、お前、」
 よしよしと首の横を擦ってやりながら、「大型犬種の寿命といえば10年といわれてますから。」そう言った菊の言葉に、今度は彼が驚く番だった。
「10年…そんなもんなのか。」
 犬を飼うことになったのは成り行きで、だからそれほど詳しくなかった彼には、初めて聞いた数字だった。10年、そんなものなのか、とそれが長いのか短いのか、よくわからない。さみしいだなんて、とんでも、ない。
「お前…爺だったんだな。」
 そっと横から指を伸ばして、その黒い頭に触れると、まぁるい目玉が嬉しそうに、彼を振り返った。なにせ彼ときたら、めった自分から犬に触れない。触れる前に犬がとびついたりじゃれついたりしてくるので変わらない気もするが、やはり犬には、特別だったらしい。じゃれつく標的を目新しい客人から主人に移して、犬はバウと一声、飛び上がる。予期していなかった襲来に、彼は見事にひっくり返った。
 庭の芝草の上に押し倒されて、顔中舐めまわされて心底ムカつく、と言う顔つきの彼を見下ろして、菊が笑う。
「愛されてますねえ、アーサーさん。」
「もうやだ、俺ほんっとこいつ嫌い…!」
「まあそんなこと言って。」
 ねえ、と菊が犬の首を撫でると、ハッハと舌を出しながら犬はやはり嬉しそうだ。尻尾がちぎれんばかりに振られている。
「ところで、アーサーさん、」
「ぶひゃっ、もう!やめっ、うげえ!な、んだ!?」
「お名前、なんというんです?」
 噫、そんな風にどかそうとしたら、遊んでもらっていると思って余計のしかかって来るのになあ。そう思っても口には出さずに、菊は彼を見下ろしている。その質問に、必死に飼い犬をどかそうとする彼の顔が、ますます嫌そうに歪んだ。真一文字に結ばれた唇と、しかめられた眉は、苦虫を噛み潰したようだ。
 しばらく沈黙が続いて、明るい日差しの中、犬だけが嬉しそうに主人の上で跳ね回っている。ザヤザヤと木陰が鳴る。それがどうしてかしら、菊には笑ったように聞こえ、アーサーにはしっかりと、『早く教えておやりよ。』という笑い声として聞こえた。
 犬が歌うように吠える。
 真一文字を通り越して、への字になった彼の口。

「…アーサー。」

「はっ?」
「…だから!だから、俺の犬じゃねえんだって!」
 最後はほとんど悲鳴だった。何か菊が言うより前に、立ち上がってどこぞへ駆け出そうとした彼を追って、犬がその背中に向かって飛びかかった。いってえ!という彼の悲鳴。楽しそうな、爺と思えぬ犬の元気な吠える声。