(蝶と夢)


 彼女の言葉に、彼は心底嫌そうに、顔を顰めた。
「は?」
 信じられない、とも冗談じゃない、ともとれるそのたった一言の切り返しに、彼女はおかしそうに肩をすくめてわらう。ちっともこりちゃいないのだ。真っ白な光が窓から差し込んでいて、部屋中明るかった。彼女は白いシャツワンピースを着て、真っ黒な子犬を抱いてる。彼のシャツも白くて、パンツのベージュがやわらかそうに光のなかにある。彼女の黒い目。少し茶色がかった黒い髪。
「だからね、この子の名前。」
 子犬が彼女の長い髪にじゃれつこうとしているのが、少し不安で、彼は先ほどの彼女の発言に心底不機嫌になったのも忘れかけてその様子をはらはら見守った。その長い髪を撫でるのが好きだ。そんなことにはならないとは知りつつも、子犬のためにその髪の先がくしゃくしゃに絡まるんじゃないかと心配になったのだ。
 生まれたばかりの子供にするように、彼女は子犬のおなかに顔を埋めて、かわいいかわいい、とわらっている。彼女はいつも、わらってばかりだ。
「アーサー、かわいい。」
 その声。
「だからそれ、やめろよ。」
 彼は不機嫌そうに顔を耳まで真っ赤にして声をあげた。
「どうして、いいじゃない。アーサー。いい名前でしょう。」
 心底愉快そうに、彼女がわらう。
「〜〜〜!ほかにも!いい名前は!たくさんあるだろう!!」
 彼女の犬の名前が自分だなんて、恥ずかしいったらない。それ以上に、彼のいないとき、このちっちゃい子犬が「アーサー、」と彼女に呼ばれるのが癪だ。きっと優しく、彼にするのと同じように、彼女はその犬をそう呼ぶだろう。もちろんそんなこと、きっと彼女には一生言わないけれども。

「世界で一等、いい名前よ。」

 この人は時を止めるように笑うので、彼はいつも時々困った。
 人間が有限であることを、忘れてしまいそうになる。
「でもだめだ!」
「もう決めたの。この子も覚えてしまったわ。ねえアーサー。」
 答えるように、子犬が吠えて、それに彼女は満足そうに笑い、彼は顔を真っ赤にして口を結んだ。怒っていいのか、恥ずかしがればいいのか、怒ればいいのか。けれど心底それが嫌だと思っているのだけは本当だと思った。頼むから勘弁してくれ!と彼は情けなく喚く。
「ほんっとに!それ!やめろ!!」
「だめ。ぴったりな名前だから。それにそっくりじゃない。」
「俺と!そいつの!どこが似てるんだ!」
 子犬は真っ黒のちびだし、彼は金の髪をした人間の形をした男だった。彼女に甘えてクンクン鼻を鳴らす、甘ったれた子犬と、いったい自分のどこを一緒にしているのだろう。もしそんなところが似ているとでも言い始めたら、自分で自分が情けなくって泣くかもしれない。アーサーはそう考えただけで涙が出そうで、ますます口をひき結んだ。
 それに彼女が、へんなかお、とわらう。真っ白な光のなか、子犬だけが黒く、取り残された夜のようだ。
「ぜんぶそっくりよ。」
 おかしそうに、彼女がわらう。
 はずかしすぎてしねるとうめいた彼にやっぱり彼女はわらうばかりだった。犬もその手の中でたのしそうに吠える。楽しくないのは俺だけだ。
 白い光の中、ふてくされた彼の頭を優しい手が撫ぜた。