(花の雨が降る)


 懐かしい夢を見た。
 バウワウと、いつもの通り、騒々しい吠え声に痛む頭を押さえながら、彼は起き上がる。思い出したらあんまり恥ずかしくて死ねるような気がした。彼女はときおり、彼には思いもよらないようなことを思いついては、彼をそれこそ死ぬほど恥ずかしがらせた。砂糖菓子のような女ではなく、どちらかというと柑橘系の女だったが、それでもやはり甘い成分を含んでいた。突拍子のない彼女の言動に、どれほど振り回されたことだろう。
 それすら好きだったから、どうしようもないと思う。
 …犬がうるさい。

 ムク、と体を起こし、彼は首を振る。あの犬ときたら、ゆっくり夢の余韻にも浸らせてくれない。それどころか、せっかくの夢にまで出演しやがるからそれこどどうしようもない。昨晩菊と少し呑んだためだろうか、それとも夢のせいだろうか、頭が鈍く痛んだ。
 あいつが、犬の名前なんて聞くからだ。八つ当たりのように客人の顔を思い浮かべながら、彼はベッドから起き上がる。ガシガシ頭を掻きながら、クローゼットを開ける。ふと白いシャツが目に入り、自分は夢の中でもそれを着ていたと思い出し、見るのを止める。細かい青のストライプが入ったシャツと、紺のパンツを手に取り、クローゼットを締める。のそのそと着替える間中、やはり、犬は吠えていた。
 彼は一度だって、あの犬の名前を"アーサー"だと認めたことはない。
 しかしそれでも、それ以外の名前を与える権限を、彼は所有しない、と自分で思っていた。だってあの犬は、自分の犬ではないのだから。

 ドアを開ける。
 菊もきっと、このうるささだ、起きただろう。
 客間のドアをちょっと見やって、それから階段を降りる。
 今からでも散歩に連れて行ってしまえば、あと2時間くらい、菊だって眠れるだろう。
 それにしても、と彼は首を鳴らした。頭だけでなく肩まで痛い。凝っているのか、固まった肩をぐるぐる回しながら、キッチンの扉を開けると、裏庭へ続く扉が開いていた。
 ―――まさかな。
 目を丸くした彼が、そおっとドアの隙間から覗くと、

「ああ、おはようございます!」

 やはり菊だった。
 彼は思わず振り返って、キッチンの時計を確認する。午前5時30分。しかし菊の顔は、いかにも寝起きではない。溌剌として、犬とじゃれている。
「すみません、少し前までは、静かに遊んでいたんですよ?この時間になると、いてもたってもいられないようで。」
 勝手に散歩に連れ出すのもあれですし、と菊が困ったように肩をすくめて笑う。その横で、朝一番で遊んでもらえて満足そうな犬が、バフ!と吠える。もちろんその輝くようなまなざしが意味するのは、「散歩に連れていけ」ということだろう。
 彼は腰に手を当て、はあ、とため息を吐いた。
 まったく、という意味である。
 お散歩ですか?お散歩ですか?
 彼のため息なんて素知らぬ顔。一人と一匹の爺が、彼のことを同じようにキラキラしたまなざしで見上げている。