(お花博士) 彼はちょっとあきれたように困った顔をして、でもそれからわらった。 「…よう。」 ハローとちょっと小さな声で女の子が言って、それに彼はやっぱり肩を竦めた。いつかのポニーテールの小さな子だ。ちょうど二回目の朝の散歩から帰ったところだった。犬がバウと嬉しそうに吠えて、とびかかろうとするので少し強くリードを引く。 「こら、馬鹿犬。」 「…馬鹿犬って言うの…?」 撫でようと手を伸ばしかけて、女の子がおそるおそる、彼を見上げるものだから困る。 「…違う。」 「じゃあなんてお名前なの?」 グッと黙って、それから彼ははあとため息を吐いた。だからこいつが嫌いなんだ、見下ろした先で、犬は楽しそうに女の子を見ている。 「……アーサー。」 彼がひとつ、深呼吸してそう言ったのに気付いたかしら。女の子はうれしそうに、「アーサー、」と教えられた名前を繰り返す。犬もめった呼ばれない名前を呼んでくれる人間が増えて嬉しそうだ。 『あれぇ、いつかのばらの子だ。』 葉っぱの裏から小人が小さく笑って、それが聞こえたのは彼と犬だけだったみたい。彼はこっそり生垣のほうを向くと、ニ、と口端を釣り上げた。 「どうしたんだ、今日は。」 高いところから降ってくる声に、女の子は肩をすくませて、それでもしっかり、彼の緑の目を見上げて言う。 「…ばらの苗、もらったでしょう。」 「ああ、やったな。」 「まだ、お花咲かないの。」 そう言ってしょんぼり顔を俯かせる。それに彼はちょっと眉をあげて、それから下げた。咲かないのは当たり前だ、あの苗はまだあまりに幼い。咲くのは来年―――それまでこの子供が、きちんと世話ができたなら、の話。彼だってここまで改良して増やすのに十三年要した。 「…まあ、あがってけ。」 そう言った彼に、女の子はやっぱりおっかなびっくり、頷いた。玄関の門を開けて、自慢の庭を通る。彼は時折、女の子に気づかれないように後ろを気にして、しかし堂々と広い歩幅で歩き、犬はその足元にじゃれたり女の子の足元へ移動したりと忙しい。女の子は少し離れて、庭に見とれそうになっては早足についてくる。玄関を抜けて、廊下を通る。後ろをついてくるとことこという小さな足音。 『アーサー、小さなお客様ね!』 『お嬢ちゃん、お砂糖はいかが?』 さっそく妖精たちが、きらきらと飛んできて笑いさざめき出す。やっぱりそれは女の子には見えないようで、しかしなんとなく、その表情は明るくなったみたいだ。そのままキッチンに入って、犬を裏庭に放そうとして―――やめる。なんとなく、自分だけでは間が持たない予感がした。犬はそのままに、彼はポットを火にかける。キッチンの入り口で、女の子はおどおど立っていた。 「朝メシは?食ったのか。」 目で早く入れと促しながら、彼は椅子を引く。口調は悪いがいっぱしのレディとしての扱いに、女の子はまた少し表情を緩めて「食べた。」と頷いた。 「…そうか。」 それからしばらくしんとして、やっぱり犬を出さなくてよかった、その間をとりなすように、犬が女の子にじゃれている。やがてコトリと目の前に差し出されたカップに、女の子は目を丸くして、犬と遊ぶ手を止めた。 「これ、」 「冷める前に飲めよ。」 こくん、と首を縦に振って、女の子がカップの縁に口をつける。ばらの匂いだ。びっくりしたように動きを止めている女の子に、ついに彼は耐えきれないという風に小さく笑った。 「ローズ・ティーだよ。」 「ばらのお茶なの?」 「…そんなとこ。」 特別な飲み物にするように、ちょっとずつ飲む様子は素直にかわいらしかった。 「で?あのばらがどうした?」 「咲かないの。」 「馬鹿だな。あれはまだ苗木だ…ばらの赤ん坊だよ。花が咲くのは、早くて来年だ―――枯れてないんだろ?」 確信を含んだ質問に、やっぱり女の子はこくんと頷いた。 「ならそのまま飽きずに毎日世話してみろ。…咲くから。」 もう一度、こくんと小さな頭が前後に振られる。 それからやっぱり、キッチンはしんとしたけれど、もうあまり沈黙は気にならなかった。椅子からちょこんと降りて、飲み終わったカップを持ってきた女の子に、彼は目を丸くして、それから「えらいな。」と笑った。女の子も、へにゃりとちょっと笑う。犬が自分もと言うように吠えて、ちょっと女の子の後ろからのしかかった。前に倒れそうになった女の子を支えてやってから、彼は犬に向かって声を大きくする。 「ああもう!馬鹿犬!」 「…なんで馬鹿犬って言うの?」 「こいつが!馬鹿だからだ!」 ぽこぽこ怒りながら、犬を庭へ引っ張り出す。 「でもわたし、この犬すき。」 女の子が笑って、彼はちょっと口端だけでわらい返す。きょとんとしてから、そうか、と答える声が、少しだけ弾んだ。 |
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