(遠くないいつか)


 年、とったのだろうか。
 その晩彼は、犬と暮らし始めてからほとんど初めて―――その犬を自分の寝室に招き入れた。夏の暑さのためだろうか。今朝からどうも、犬は調子が悪い。12年ぶりに、吠える声に起こされることのなかった彼は、それでも5時半に自然と自らが目を開いたことに少しばかり呆れている。いつもなら吠えて吠えて吠えまくって、散歩に行こうとねだるのに、今日はリードを見せてもチラとも反応しなかった。どうにか引っ張って連れ出そうとしたが、それすら拒まれた。
 水は飲んだが飯は食っていない―――。
「おい、」
 暗闇に向かってそう呼ぶと、影の塊が動いた。のたのたと、犬がベッド際に寄って来る。少し布団の間に隙間を開けて、トン、とシーツを手のひらでたたくと、やはりのそりと億劫な動作で、犬はその上に上がった。
 ここに来たばかりの―――まだここまで大きく育ってはいなかった子犬だった頃―――最初の一週間、犬は彼と一緒に眠った。彼女がいないと眠れないと、犬が鳴くから。仕方なく、だ。小さな黒い毛の塊は、あったかだった。彼がシーツをたたくと、ぴょんと軽々ベッドに飛び乗ってきたものだ。
 こんなに重たげに体を引きずっていたろうか。
 ベッドの上に上がることすら一苦労だったように、すぐに目を伏せてしまった犬の背中を撫ぜながら、彼はその閉じた目をじっと見つめる。毛に隠れて見えないが、確かにこうして近くで見ると、目の周りの弾力がすっかり失われたようだ。
 つい先日だって、アルフレッド相手に元気に跳ね回って、一昨日だってそれはもう夏バテなんて知らないよ、と言わんばかりに飯を食って、公園を駆けずり回り、またばらのことを尋ねに来た女の子を背中に乗せて走り回って、それから昨日も、小人たちと裏庭を駆け回っていた。
 まだこんなに元気じゃないか。
 撫でると毛皮の下の、分厚い肉体の塊の輪郭が手のひらにずっしりと重い。
 こんなにおもたい命じゃないか。
 真っ黒な毛並み、くまみたいねと女の子が笑う。私もこれくらい、ずっと元気でいたいものだなぁとベンチの老紳士が微笑む。まあ今日も元気ね、これは隣の奥さん。"アーサー"ってすごいのよ!風のように走るの!これは妖精たち。裏の親仁にうるさいと怒鳴られて、嬉しそうに後ろ足で立ち上がってその顔を舐めまわす馬鹿犬。ね、あなたにとっても似てるわ、といつかの君。

「―――しぬなよ。」

 言葉が口をついて出た。あんまり小さなひとりごとで、枕の裏のゴーストにだって、きっと、聞こえなかったろう。自分のこんな情けない声、久し振りに聞いたと彼は思った。老犬は答えない。じっと伏せたまま、静かに呼吸をしている。
 お前がこんなに静かだと、調子が狂うよ。
 だってこんな、変じゃないか。俺がこいつを自分のベッドに入れて、こうやって背中を撫でてやっているなんて、おかしいことだ。うるさい暑苦しいよるな馬鹿犬!くらい言って裏庭に放り出す。お前と俺は、ずいぶんそんな関係、続けてきたはずだ。

 彼はごろんと、上を向いた。
 暗い天井が遠い。
 君にもう会えないように、君の犬にも会えなくなる日がくるのだろうか。そうしてその日はひょっとかしたら、遠いいつかなんかではなく、今日明日のことかもしれないのだ。そうしたら、いったいどうしたらいいのだろう。おい馬鹿犬と言うこともなく、朝5時半からうるさい鳴き声に悩まされることもない。気を抜いてドアを開けたせいで、とびかかられてひっくり返ることもないし、庭の花が荒らされる心配も、その犬の恥ずかしい名前のせいで死にそうな思いをすることもなく、気兼ねなく家を空け、気兼ねなく寝坊をし、気兼ねなく―――。
 お別れは決まりきったことで、けれどもっとずっと先の、いつかのことだと思っていた。しわくちゃになっても愛する自信があったけれど、指輪を贈る前に彼女はポオンと空を飛んで、それっきりだ。
 彼女は犬を飼っていた。
 彼はあまり、犬が好きではなかった。
 彼女が犬だけを残した。
 彼はすっかりこまってしまって、それから少し、―――さみしいよ。

 呼吸する黒い塊を隣に、彼は少し泣いた。
 その晩夢をみた、君の夢だよ。