桜の下には恋人、蓮の下には少女、藤の下には貴婦人が埋まっている。
紫陽花に想い人、水仙にはエコー、沈丁花なら銀の髪。
ではあの朝露に濡れた真紅の薔薇の下には?
――美しい五月の、青ざめた少年が。

  01.夫婦は椿の下
  02.兄弟なら梨の下
  03.背徳の蜜は林檎
  04.懼れは月桂樹の下に
  05.微笑は槿の下
  06.稀人なら時計草の下
  07.枳殻に登るは幽霊
  08.昔話は箒草の下
  09.麝香撫子の下には涙
  10.豌豆の下に眠る僕

  11.白妙菊は項垂れた
  12.使い魔の咲かす芥子
  13.合歓には夜の子供らが
  14.告発者は木蓮の下に
  15.薊の下なら狂気の沙汰
  16.木立瑠璃草は空を飛び
  17.そうして最後に薔薇の下























01.



夫婦は椿の下
 真夜中。父と母は喧嘩をする。母はヒステリックに叫び父は苛々言葉を返す。真夜中の邸は静か。ふたりの声が遠くに聞こえる。神々の道行きのように。僕はシーツの中でお祈りをしている。小さくなって耳を塞いでいる。神様に祈ったことはない。魔法使いに神はない。兄は隣のベッドで、ふかふかの枕に頭を預け、両手を頭にやって天井を見上げたままニヤニヤと笑っている。ふたりの声が聞こえないわけでもあるまいに。退屈そうに、ニヤニヤとあのいやらしい笑みを浮かべている。
 言い争う内容は、ガランとした屋敷の廊下によく響く。
 認めるものですか!外で作った子供など!噫なんて汚らわしい!ブラックの恥!
 どうして耳を塞ぎたいような言葉の応酬に耳を傾けて、兄はニヤニヤ笑っていられるのだろう。不可解だし、不愉快だ。母の声は鋭く、高く、よく通る。逆に反論する父の声は、低く、どうにも聞き取れない。地底から響く声を聞くようだ。僕は枕をすっぽりと頭に被りその上から毛布も重ねる。そうするとますます、父の声ばかりが耳の奥、蝸牛の居座るあたりで小さく響くのだった。
 噫とても眠れない。
 兄は隣でとっくにいびきをかいている。噫、なんて夜だ。わざわざベッドから出て、兄のベッドの脇まで行き、そこから彼をいっそ腹いせに突き落としてやろうかと思うけれど、外へ出れば寒いので止めておく。決して彼による報復が恐ろしいからとか、そういう理由ではない。布団の中はあたたかすぎる。真夏の海に浸かるようだ。そうしてゆらゆら睡魔の波の間に、青い花、見つけるのが睡眠だろう。噫なのに声が五月蝿くて眠れやしない。何も聞きたくない。何も聞きたくないのに。
 目を塞いで小さく縮こまっている間にいつの間にか眠ってしまって朝が来る。目覚めたとき、まるで悪夢でも見たように汗をかき掌を硬く強張らせている自分が滑稽だ。兄はまだすやすやと、惰眠を貪っている。そのきれいな顔を照らす真っ白な朝日さえ忌々しい。兄さま、兄さまと呼んでその後をひよこのようについて回った時代は、僕の中で鍵をかけて隠してしまいたい記憶だ。すべてが忌々しい。
「兄上、いい加減起きてください。朝です。」
 おう、と答え起き上がると、ニヤとこちらに向かって笑う兄。
「おはようレギュラス。」
「…おはようございます。シリウス。」
 レギュラス。それが僕の名。獅子星の主星。――シリウス。それが兄の名。全天の主星。敵うはずがなかった。生まれたときから、決まっている。その青白い星。噫忌々しい。それが最近の僕の口癖であるらしかった。大きな欠伸を隠そうともせずに、着替えながら兄がふと笑う。
「もう一週間も連続、毎晩御熱いことだ。」
 もちろん厭味なのは、僕にだってわかる。ニヤニヤと笑って兄がこちらを見る。僕は何もいわずネクタイをきっちりと結びなおす。自らの両親に向かって、そういった物言いをする神経が僕にはわからない。無視されたのにもかまわず、兄はぐしゃぐしゃと僕の髪をでたらめに触りまくると言った。
「近いうち必ずなにかあるな。賭けてもいい。」
「そんなこと賭けられても楽しくもなんともありません。」
「…まじめなやつだなあ。」
 かわいそうにまだこんなちっせえのに。兄の手が再び頭に伸びる。
「やーめーてーくーだーさーい!」
 こういうときも、身長差やら力の強さやら、見せ付けられていやになる。ひとつしか変わらないのに、どうだこの背の高さは。そしてなんだこの力の強さは。振り払うこと、ままならない。はいはい、と件の笑みを浮かべて兄が去ってゆく。先行ってるぞ。朝食が始まる。金属と陶器の触れ合う音だけ響く食卓。噫あのなんというテーブルの広さと長さよ!無言の、石の味のする食事。視線のみの応酬。
「――お先にどうぞ。」

 ある朝父親が言った。
「お前たちに兄弟が増える。」
 と。(母親はその眉間に深くしわを寄せて唇を噛んでいる。兄は無関心に、ただニヤニヤと笑い続けている。)


20090114/椿―――(花言葉)冷ややかな美しさ・誇り
椿の首はポロリとあっけなく落ちる。

 












    


兄弟なら梨の下
 その子供は夕方に来た。父に連れられ、馬車に乗って。
 ひどく細く、華奢な風貌だった。そうしてつけくわえるならば、とても美しい。あちらこちらに父よりは、その母親の面影が見受けられた。首と手足が驚くほどすらりと細く、色が白い。大きな目玉が長いまつげに囲まれてつやつやと光っていた。そうだ、その目玉の灰色。それだけが父によく似て、あとに残るこの繊細な優美さはなんだろう。小さな唇はばらの色。細い首。白いブラウスに、リボンタイ。膝までの黒いズボンに、行儀よく白い靴下、黒皮の靴。相手の女を嫌でも、連想せざるをえまい。
 なのにその髪のぞっとするように美しい黒。黒。ブラックの望む、美しい血だ。
「初めまして。」
 少年は言った。その眼差しになにも含ませず、ただただ無関心に。その目はまるで、彼らを通して遠い宇宙の闇かなにかを、見つめてでもいるみたいだった。
 背中に立っている母親の視線が、燃え滾るように熱く憎しみがこもったものだと言うことはみなくともわかった。
だ。確かレギュラスとは同い年だったな。仲良くしてやりなさい。」
 この人は自らの息子の、年も曖昧なのか。隣で兄も同じことを思ったんだろうか。クツリと冷たく、笑っている。
ね…?」
 予想外に、小さく兄が呟いたのはその名だった。へえ、となにか訳知り顔の眼差しを、じっと父に注ぐ。
 彼の顔はいつもと同じだ。微動だにしない。オリオンの顔。彼の顔は常に動かなかった。その眉間には、まるでこの世の最初からそこにあったかのような、しわがきれいに収まっている。僕は思えば、父親の表情をそれ以外見たことがない。父は世界の何事にも、興味がないかのように時折見えるものだから、僕は未だにこの人が、外に女性を作ったということにいまいちこうしてその子供を目の前に置かれたとて実感がわかない。
 その目がふと、僕を見る。その狩人の目。目。兄の目と少し似ている。兄とは別の、威圧感。強制力のある目だ。なかよくしなさい。その言葉が思い起こされる。母のことを思えば、仲良く、なぞできるわけがないのに。
 しかし兄は笑った。ニカ、と普段めったに親の前ではみせないような屈託のない顔で笑ってみせる。
「よろしくな、。シリウスだ。レギュラスと同い年ならお前のひとつ年長だ。」
 で、あそこで固まってるのがレギュラス。我が弟だ。
 兄に親指で指されて、はっと我に返る。
「不愉快です。」
 母の声が硬く響いた。
「部屋に帰ります。」
「ヴァルブルガ、」
 父の呼びかけに母は振り返らなかった。
 僕は時々、母の名を忘れる。


20090115/梨――(花言葉)和やかな愛情・慰め。
白い花ほろほろと。
 












    


背徳の蜜は林檎
 一日目は恐ろしいほど静かだった。呼吸をするのもはばかられるような気がしてしまうくらいには、静か。母親の顔を見ることもためらわれる。結局その日は、少年とも母親とも言葉は交わさなかった。兄は二言三言、なにか少年と話をしていたようだ。(というより多分ちょっかいかけて兄がおもしろがっているだけだ。)
 眠る前に兄がポツリと言った。
「おい、レギュラス。三日この沈黙が持つか賭けるか?…持たない!俺は持たないに賭けるぞ?」
 ニヤ、と笑って兄がこちらを向く。賭博は嫌いだし馬鹿馬鹿しいので、僕は黙っていようと思った。
「…賭けにならない。」
 しかし僕自身意識せずシーツを引っ張り上げたときに漏れた呟きに、確かに、と兄が吹き出して笑った。
 二日目の朝食の母の顔は死人よりも青かった。彼女は途中で吐き気を催して席をたった。少年は数口、銀のフォークとナイフで切った肉とパン、スープを口に含む程度でまるで食べなかった。兄はいつもの通り、チキンをおかわりしている。その日は僕も彼と話をした。会話と言っていいのかわからないが、彼が廊下の真ん中にぽつりと立っていたのでおそらく迷ったのだろうと思った。従姉達もたまに邸内では迷う。その手持ち無沙汰なかんじがよく似ていた。彼には僕達兄弟と違って個室が与えられている。確かにいきなり同室に、されても不快なだけだろうから、その配慮については文句はない。
「どこへ?」
「…ブラック候の部屋へ。」
「なら、突き当たりの階段を昇って右へ。」
 会ったときと同じ、まだ声変わりをしていない硬質な声。金属じみた水色のアルト。彼は自らの父親を名前で呼ぶ。頭の悪い話し方ではないなと思い、僕は少し安心し、そのことに自己嫌悪する。なぜならそのとき、僕は、兄なんかよりも良い話相手になりそうだと思ってしまったのだ。馬鹿の相手はごめんだったし、突飛な天才の相手もうんざりだった。彼は賢そうな目をしてた。それにしてもその思考が母に申し訳ないと思う。
 三日目。母は朝から顔を今日は赤くしている。兄は今か今かとニヤニヤとしており、それがとても下品だと僕は思う。少年は色のないあの無表情で食卓にいた。僕は彼とは同い年であるし、彼の誕生日など知りもしないので、兄と形容すべきか弟と形容すべきか少し悩む。ブラザー。その一言で済む英語とはそも便利な言語だ。誰も話そうとしない上に、いつもの数倍居心地の悪い空気なので僕はくだらないことを考えながらスープを口に運ぶ。
 静寂。
 それが崩れるのは突然だった。母の手から、銀食器が甲高い音を立てて転がり落ちる。細い首に血管が浮いて、その手の甲がブルブルと震えていた。その声も、すべて鈴がつけたらよく鳴るだろう、それほどに内側の感情のうねりに震えている。
「―――出てお行きなさい!!」
 最初なんと言ったか解らなかった。高貴な女性があげるには、喚き声と形容するのが正しいそれはあまりに聞き取りにくかったのだ。
「あああああああ食事がまずくなります!出てゆきなさい!おお庶子など認めるものか!ええ、認めるものですか!なぜお前がここにいる!なぜまだここにいる!?お前は、お前は―――!!!」
 最後はほとんど悲鳴のようで、言葉になりきらなかった。まるで雷にでも打たれたように、母ははっと口をつぐむと立ち上がり、高いヒールを鳴らし彼に近づく。彼はじっと、未だおびえも驚きも、なんの感情も見せず椅子から立ち上がり、直立していた。その目だ、と母が叫ぶ。その目が気に入らないのだと。兄はもくもくと食事を続けていた。今日も元気に、チキンをおかわりしている。悔しいことに、僕は若干母の様子におびえてもいたので腰を半分椅子から上げたまま、固まっていた。
 おそらく僕は、初めて母の手が振るわれるのを見たのだ。彼女は魔法すら、自ら行使することが少なかった。
 パシリと響く、乾いた音。少年の体はまるで重さなどないように、くるくると回って吹き飛んだ。母は真っ赤になって震えながら、肩を怒らせている。よくない兆候だ。呼吸が荒い。この人は癇癪の発作を持っている。痩せた目の周り、その下の黒い隈。噫この人が僕の母親かと、無感動に思う。誰も彼もが黙っていた。母の喉がヒュウヒュウと嫌な音を立て始めているだけ。
「―――母上、」
 ふいに言葉があった。ナプキンで手をぬぐいながら、兄がただ顔を上げた。何を考えているのか読めない静かな表情で、じっと母を見ている。その無機質な眼差し。まるで物を見るような、無遠慮な観察者のような――。その目の中で星の虹彩の銀ばかり、鋭く光る。母がみるみる白くなり、青くなる。かわいそうな人。兄のあの眼はあまりに強い。紫の唇を噛むと、その人は真っ黒なドレスを翻して出て行った。
「…いやな子。」
 何事か兄とすれ違いに彼女がつぶやき、兄が笑った。
 呻き声にまた振り返ると、倒れ伏していた少年がゆっくりと、上半身を持ち上げるところだった。床を見た眼差しを、隠す黒い髪。そしてその向こうに透ける、白すぎる頬。
 その頬に浮かんだ青あざは、思わずゾクリとするほどに耽美な色をしている。そっと細い指を頬に添えて、少年が俯く。まるでなにか、他人ごとのように、無感動にその指先をぼうっと見つめている。夢でも見ているような、やはり他人事のような視線だ。
 その真逆に、自分の体の芯のなんて熱いことか。心臓が大きく脈を打っている。手のひらが熱い。その、あまりに背徳的な美しさに、一瞬思考が止まる。少年の口が、薄く開いて凍えたように小さく呼吸する。(――噫。)
「大丈夫か。」
 意識をぐいと現実に引き戻したのはやはり兄だった。いつの間にか彼は少年のまん前に移動し、その手を起き上がらせようと差し伸べている。
「安心しろ。…母上様が怒っているのはお前にじゃないさ。プライドの塊のようなお方だ。外に女を作られたという事実が――つまるところ外に女を作らせた自分が、一番腹立たしいんだ。」
 差し伸べられたその手を、少年はじっと見極めるように見つめて、それからふいと目を逸らすと自ら起き上がった。行き場をなくした手に、兄はひょいと肩を竦める。そのままその手が、なんとはなしに少年の頬に伸びた。一瞬その銀の目が、不思議に光る。
 次の瞬間には遠慮もなにもなく、その手ががっしり、頬を掴んだ。少年が身を捩って逃れる暇も、僕があ、とつぶやく暇もなかった。その大きな掌が、少年の顎と頬をがっちりと拘束する。
「痕になってる。冷やした方がいい。」
「…別に構わない。」
 捕まれた顔を背けようとして、彼は失敗した。やはり兄の力は強い。それどころかますます顔を近づけられて、少年の顔が苦しげに歪んだ。兄はその様子に気づくそぶりもなくその痣を見ている。
「馬鹿言え。手痕がついてる。夕食の席で父上になんと言うつもりだ。」
「…転んでぶつけたとでも言うさ。」
「これが転んだ跡に見えるならわれらが親父様は相当な間抜けだな。」
 うるさい、放っておいてくれないか。少年が彼を振り払おうとその手を上げた。乾いた音。兄のたくましい腕がその小さな手のひらをやすやすと止めている。その目のぞっとするような銀。
「まったくお前は怖いもの知らずだ。」
 兄が珍しく、笑わずに告げた。
「なぜこに来た、。」
 兄が初めて、挨拶以来僕の前で初めてその名を呼んだ。少年は答えない。ただその薄っぺらな美しい微笑を、彫像のようにその顔に貼り付けてただ直立していた。


20090116/林檎――誘惑(イヴの林檎イメージから)・(花言葉)選択
 












    


懼れは月桂樹の下に
「おお、そんなことがあるはずがない、そんなこと、そんなことが…!!!」
 女は顔を覆いうめいている。
 豪奢な椅子に腰掛けた彼女は、今にも狂いださんばかりだった。その痩せぎすの体が、軋むようにしなる。骸骨が着飾って歩いているようだというのは、彼女の息子が母親その人を指して言う言葉である。もちろんそのような言葉が、彼女の耳に入ることはない。乾いて震える手のひらで、彼女は片方顔を覆った。そうしてできた暗闇は、薄っぺらでちっとも彼女を隠してはくれない。どこにも逃げ場などない。おかしなこと、おかしなこと。あなたは女王であるのに。闇が嗤う。
「お前たちどういうことなの!あれは、あれは。あれではまるで…!!」
 彼女は部屋の片隅に向かって声を上げた。
 何も彼女が、視覚に異常をきたしたわけではない。その暗がりには、邸に使える多くの僕妖精のうち、彼女の世話を仰せつかった三匹が並んで俯き気味に畏まっているのだ。
 女主人の金切り声にも、彼らはびくともせず、それでもどこか怖れ慄きながら立っていた。
「いいえ。ご主人様。」
 三匹見事に直立した、僕妖精の右端が淡々と告げる。三匹はまるで区別もつかないほど似通っている。総じて屋敷僕というものは、どれもこれもが似ているが、それ以上だ。もはやこの三匹については見分けようもないように思われた。 異常なまでに、似通って、個もなにも失ってしまったかのよう。彼らはもういつからこの家に仕えているのか、覚えてすらいないに違いない。
「いいえ、ご主人様。私は確かに殺しました。お見せしましたでしょう、あの小さな心臓を。あの坊ちゃまのものです間違いございません。」
 左端の妖精が、淡々と告げる。黒い目玉が暗がりでつやつやと光る。恐ろしい言葉は、ゴロリと床に転がる。取り囲まれた砦に、首を投げ込むような、無遠慮な言葉。
「おおそのおぞましいことを言わないで!」
 彼女はまるで別人のような太く遠い声で慄く。
 三匹の使い魔たちは、言いつけの通り沈黙する。
 しばらく沈黙が当たりを支配し、彼女はその間ずっと、なにか見えない子供の視線を怖れるように小さくなって震えていた。三匹は直立のまま、微動だにしない。カチリ、カチリ、と時計の音が鳴る。やがて、女は震えながら、先ほどとは違う目の色をして、その手のひらに埋もれさせた顔を上げた。その顔におびえはなく、狂気染みた無表情が、浮かぶ。空っぽの表情。わななく唇は、恐ろしいからではない、怒りと、それからただの狂気。ゆったりとした袖を振って、彼女は見えない子供を払いのけるように叫んだ。噫あの子供。馬車から細い足の覗いたときのあの戦慄。そればかり彼女を苦しめる。
「確かに殺したと言ったね…ではあれは誰だというの!?あれは!あれは誰なの!あの幽霊を追い払って頂戴!!」
 無表情はすぐさま剥がれて、懇願する表情が出来上がった。三匹の小さな僕に縋るように爪を立てる彼女は、幼いときから変わらないのでございます、というのがその僕の言うところであろう。
「それは無理でございますご主人様。」
 すかさず真ん中の、僕妖精が口を開く。そっくりな三匹であるが、真ん中のものが一番年長であった。
「なぜ!なぜ!」
「旦那様の命がございます。お守りするようにと。」
 三匹は口を揃えて言った。ひょっとしたらどれか一匹が言ったことだったかもしれないが、どれが発言したものか、判じることは難しい。女はその言葉に絶望したように口を開ける。それほどに主人の言葉は三匹にとって絶対であった。そしてそれを、女主人も重々承知していたのである。
「おおおお…!なんと、なんということなの…。」
 彼女は首を振り、そのまま椅子に座り込む。決して顔を、上げはしない。朝が来るのがこんなにも恐ろしいことなどなかった。食事の机、右側、彼女のかわいい次男のその隣に腰掛けるその子供。あれは、あれはなんだ。あれが恐ろしい。あれこそが恐ろしい。
 そこには彼女の、罪があった。殺して潰して消し去った、そっくりそのままの形で。。確かにブラックの子であるという、星の名を冠して。


20090212/月桂樹―名誉、栄光(の下にはおそれが隠れてるのよねっていう
 












    


微笑は槿の下
 少女の幽霊がでる。 真っ白いドレスの、美しい少女が。
 その噂は狭くはない邸内をあっという間にひそやかに覆いつくした。と言ってもこの屋敷に住み込みで仕える魔法使いは少ないから、僅かな執事に、女中、後は主に屋敷僕たちの間でだ。
 少女は青ざめた顔をして、邸内を真夜中、歩き回る。別段不思議がることでもない。幽霊が出るのは真夜中に決まっているし、なぜそれが幽霊だとわかるのかというとこの屋敷に少女はおらず、またその様子があまりにも悲愴で浮世離れしているからだ。おまけに足まで宙に浮いているからには、人間ではないに違いない。
 気難しく最近ますます癇癪の酷い女主人にそんな噂が知られないように、内緒話は広まっていたが、もちろんその女主人の耳にも、そしてその夫と子供たち、つまりは僕の耳にも噂は届いていた。
 広いとはいえ一つの屋敷の中のこと、聞こえず済むほうがおかしいことだ。
「ついに我らがブラック家は幽霊屋敷になったらしいぞ?」
 シリウス、兄がニヤニヤと笑いながら僕に告げる。この不愉快さが通じればいいと思って眉をしかめるけれど、それくらいで通じるならば僕はこの短い人生でこんなにも苦労していないだろう。僕はそういう――という種類に限定するまでもない、あらゆるジョークが、苦手だ。
「…冗談はよしてください。」
「冗談じゃない。もっぱらの評判だ。美人だって。」
 はいはい、兄を軽くあしらいながら書架の右から左へ目を走らせる。目当ての本は未だ見つからない。こういうばかげた話をするときの兄とは、特に関わり合いになりたくないのだけれど、どうしても読みたい本だから適当に相槌を打ちながらなおも本を探した。
 まったく兄ときたら、適当に相手をされているのが分かっているにもかかわらず構わないようだ。それどころか楽しげに鼻歌歌ってすらいるのだから参る。これだから天才とやらの考えることはわからないんだ。その天才の弟である僕は、時々兄は天才などという真面目なものではなく奇才と書いて本来の意味とは別に奇妙な才能と読ませるほうの、人種ではないかと疑ってしまう。
「おい、」
「は、い!?」
 呼ばれた声にいやいや振り返って瞠目した。赤い背表紙の本が、自分に向かって飛んできのだ。かろうじて顔面すれすれのところでそれを受け止めると、それを投げて寄越した兄のほうをにらむ。これは僕が今の今までずっと探していた本じゃないか。書庫へ入ってきたときの会話を一瞬に思い出す。

『おうレギュラス。』
『…めずらしいですね、書庫にいるなんて。』
『まあな。探しものか?』
『まあ。』

 あの時にすでにシリウスは僕の目当ての目星をつけていたに違いない。やはり、趣味が、悪い。しかしシリウスはどこ吹く風だ。おい、と親しげな様子で、片手を挙げる。その視線の先、書庫の入り口に佇んでいるのは彼のもう一人の弟であり僕と同い年の弟でもある――異母弟のである。兄のほうは人懐こそうな笑みで手を振り、もう一人の弟は表情を少しも変えず。その冷たい顔を少し傾けて見せただけだった。
 しかしそれにしても、いつの間にか兄は、最近現れた弟、あの少年、に対して名前で呼ぶまでに馴れ馴れしい。しかしそんな調子なのは兄だけで、のほうは相変わらず、誰の前でもあのうっすらとした無表情であるように思う。それともやはり、兄だけの前ではもう少し打ち解けた様子を見せたりするだろうか?
 自分ですらこの兄の前で打ち解けた様子を見せたのなんて、もう随分昔のことだから、僕にはやはりよくわからない。無表情の下で思考する間にも、手招きをされるまま、彼はこちらへ、不思議そうに首をかしげて細い足で歩いてきた。まったくの無表情であるのに、それを不思議がっている、と感じてしまうあたり、僕も僕で彼のいる環境に順応してきてしまったのかもしれない。静かに唸る僕の隣で、兄は椅子の背もたれをだらしなくだきしめたまま、を見上げて笑った。
「お前は幽霊についてなにか知ってるか?。」
 その質問に、彼は少し目を丸くした。そうしてその後で、初めてが、花の開くように静かに微笑ったのだ。僕はもうしばらく吃驚して、思考が途切れるくらいだった。それほどに、強烈だった。まさかあの叩かれてもびくともしなかった頑固な表情筋が、こんなにもやわらかに機能するとは思いもよらなかったものだから。
「ああ…知ってる。」
 が微笑む。透明な声。怪談話には似つかわしくない、奇妙な親しみを帯びて。
「その幽霊なら僕についてきたのだ。」


20090219/槿―――信念(人の世ははかない、の意に例えられている花)