桜の下には恋人、蓮の下には少女、藤の下には貴婦人が埋まっている。
紫陽花に想い人、水仙にはエコー、沈丁花なら銀の髪。
ではあの朝露に濡れた真紅の薔薇の下には?
――美しい五月の、青ざめた少年が。

  01.夫婦は椿の下
  02.兄弟なら梨の下
  03.背徳の蜜は林檎
  04.懼れは月桂樹の下に
  05.微笑は槿の下
  06.稀人なら時計草の下
  07.枳殻に登るは幽霊
  08.昔話は箒草の下
  09.麝香撫子の下には涙
  10.豌豆の下に眠る僕

  11.白妙菊は項垂れた
  12.使い魔の咲かす芥子
  13.合歓には夜の子供らが
  14.告発者は木蓮の下に
  15.薊の下なら狂気の沙汰
  16.木立瑠璃草は空を飛び

  17.そうして最後に薔薇の下























01.



稀人なら時計草の下
 がきて半月が経とうとしている。
 幽霊のことは聞けずじまいで、は沈黙を保っている。
 しかし彼との距離が、不思議と縮まったのはなぜだろう。兄とは違い、僕の方から積極的に関わろうとしたわけではない。むしろ、その逆。僕は彼を避けていた。それでも自然と、距離は詰まり、そして何故か、今も書庫に並んで座っている。誘い合って書庫に来たわけではない。偶然。そう偶然に書庫を訪れ、そのままこうしてここにいる。どうにも解せない。ページをめくりながらも、右側に座った存在をどうしても気にしてしまう。そっと横目で伺いやると、彼は白い横顔になんの表情も浮かべず、ただ淡々と文字に目を落としている。黒髪の先が、睫より少し低いところでさらさらと囁く。こうしてみると本当に華奢だ。小さい顔に、まだ細い肩。
 どうしてこんな風に一緒にいるのかしら。少し思い返してみるがさっぱりわからない。少なくとも僕が誘ったわけではないし、彼もそうだと思う。自然となぜか、気づくと時折近くにいるのだ。それはひそりと黒い猫に懐かれるような感覚で、不快ではない。彼は物静かで、ほとんと言葉を発しない。
 おそらく彼もそうなのだろうが、そもそも僕は人といるのが得意なタイプでもなければ好きでもないから――その間合いの取り方は絶妙だった。思わずもうずっと長いこと、がそうして傍にいたのではないかしら、と錯覚しそうになるほどには、彼は見事な距離に佇んでみせたのだ。ひそやかに、けれども確かに。
 おしゃべりは嫌い。気を使うのも、使われるのも、それから使わないのはもっと嫌いだ。気を使う気がないくせに気が回る、だから兄のことが僕は苦手なのだと思う。彼の図々しさこそ天性だ。それでいて細やか。噫、気に食わない。
 その点この異母弟はよかった。まったく喋らず、またそのことを苦と思わせないだけの静謐さを持っている。微笑も、視線も、会話も、なにもないと言ってもいいだろう。ただそっと影のように存在している。そんな風に傍にいられることは、苦痛だろうと思ったが、けれど違う。妙に彼が静かに黙ってそこにいるだけで、安定感があった。なにかが充足し、満たされるというのは言いすぎだろうか。ただ元からそうであったかのように、当たり前の顔してそこにいるので、そのことに違和感を感じなくなってしまうのだ。いつからだろうか。この距離に彼が立ち始めたのは。
「君、27日に生まれたのか?」
 突然だった。そうだ、そう声をかけられた。それがなにか、となるべく突き放して冷たく聞こえるように発音した僕に向かって彼は少しわらった。初めて僕だけにみせた少しだけ親しみの見える微笑。
「…僕もだ。」
 そんな小さなことで彼が僕に懐いたんだと考えると不思議な話だ。特に優しくしてやったわけでも、自分から声をかけたわけでもない。偶然といえばいいのか因縁的と言えばいいのか、ちょうどぴったり一月生まれ月をずらして、僕たちは年が同じだ。だから親しみがわいたのだろうか?しかし彼からそこまで友好的な空気を感じ取るようなことはなく、本当にただ、そこにいる、といった印象。
 本当にいつからだったっけ?がこうして傍に寄ってくるようになったのは?
 文字を追うことを休んで、僕は少し眉間の奥あたりに神経を凝らす。すると近くで、のページを捲る音が大きく聞こえた。乾いた音。天窓からうっすらと午後の日が差している。この静寂は、嫌いではない。そうしてその中で、とりとめのないことを考えるのも。

 変化はあまりに穏やかで、どこから変わったのか明確に思い出すことができない。しかしきっかけがないとは思えなかった。なにか。なにかがあったはずなのだ。この無口で無表情で無愛想を通り越して物静かな、考えのまるでわからないを動かすに足る何かが。
 ふと手元に目を落とすと、文字の中にgestの単語を見つける。客人――、ああ、そうだ。が来てからというもの、母は客を呼ばないように呼ばないようにと気を高ぶらせてる。親戚ですら、この半年寄り付かせない。突然に増えた継息子を、紹介したくないから。
 だのに突然、あの日は来客があった。父の古い家庭教師だとかで、白いひげをたっぷりと生やした優雅な老紳士はもう夕飯時も過ぎようという頃に突然訊ねてきたのだった――。追い返すわけにもいかず、母は渋々彼を通した。父は順々に僕ら息子たちを長男から紹介し――、
「左から順に長男のシリウス、さあご挨拶を。」
「ようこそミスター。」
 彼は大層、大人たちからの第一印象がいい。
「次男のレギュラス、…三男のです。」
 老紳士の固くて大きな手のひらと順々に握手を交わしながら、一言二言、会話の応答。背格好の良く似た僕とを押しなべて比べながら、老紳士が訊ねる。
「おいくつですかな?」
 同じ年を答えた僕たちに、彼が「おや双子とは。」と笑い、父が曖昧に頷き返す。母が少し神経質に子供たちの就寝の時間だと告げて、父親と連れ立って客間へ引っ込んでいった。
 双子。その言葉を彼が、何度も口の中で転がしていたことを奇妙に覚えている――そのとき偶然に目があった。彼の目。今までにない不思議な色をして、僕を見ていた。その唇が、小さく動いた。
「双子、」

 その言葉が、なにか彼の琴線に触れたのだろうか。そればかりは推測することしかできないから、僕にはわからない。ただたぶん、あの辺りから彼の中でなにか、僕に対するなにかが変わったのだ。常に家の誰とも一線を引いている彼だが、僕に対する線引きだけ、彼の側に近い気がするのはおそらく気のせいではないのだろう。双子、その言葉に特になんの感慨も感想も抱かない僕には、その心境の変化は図りかねるが――。
「レギュラスお坊ちゃま、」
 失礼します、沈黙の中にしわがれた声が入り込んだ。僕たちの座るソファの前に、屋敷僕が一匹、うやうやしく"姿現し"ている。
「お勉強の時間にございます。」
 ああ、と頷いて本を置きながら、ソファに座ったままのを見やると、いつの間にか膝を丸める体制でになっている。行儀が悪いととがめようとは思わなかった。こんな風に砕けた格好をするのはおそらく僕のいるところだけなのだろうなと思うと、彼に対してよく話しかけては失敗する兄に、少しばかりの優越感が生まれるからだ。しかしそんなちっぽけなことで満足を覚えるような自分が、次の瞬間には浅ましく、小さく思えるので、僕は頭を振ってそのことを忘れる。馬鹿馬鹿しい。母を思うなら本来は、こうしていることさえ良心が咎めるべきことなのだから。それに本来ならば、僕が彼に腹を立てても――その存在を嫌悪したとしても、そのことにはなんも不思議はない。同じ歳だということ、僕よりぴったり1ヶ月遅れに生まれた――それはつまり、僕の、僕たちの父親が。
 …やめておこう、過ぎたことを考えるのは、とくにこんなことを考えるのは、疲れるだけだ。
 僕の心の中など知りもせず、が目を見開いてじっと僕妖精を見ている。なにか見極めようとするように、彼はいつも妖精たちを観察している。その理由なんて知らないし、知ろうとも思わない。なのに、「…じゃあ。」結局一声かけてしまうのが、僕の悪い癖だと、自分でも思う。


20090228/時計草/稀人―――客人の意。
 












    


枳殻に登るは幽霊
 それを僕が知ったのは、本当に偶然だったのだ。
 その晩、どうしてこんなことになったのかしらと、僕は少し情けないような気持ちで考えていた。なんだってこんな真夜中に、僕は廊下にひとり裸足で立っていなきゃならないのかしら、と。どうして僕は眠れない。こんな夜のまんなかで。長い廊下は、暗く、ぼんやりと規則的に点った明かりが冷たい。
 用を足しに部屋を出た。その曲がり角で、僕は噂の幽霊を見たのだ。
 白いドレスのレースの裾が、陽炎のように見えた。思わず反射で追いかけた。魔法使いが幽霊を恐れるなんてナンセンス。白い影はゆらゆらと、滑るように廊下を移動する。勢いよく、足音ころして駆けるけれどなかなか追いつけない。足のない幽霊に駆け足で勝てるかなんて、だれにも分からない話。けれどもなぜか、僕はそれを追いかけ続けた。そのドレスがふわ、と揺れて、かなしげだったからだろうか。幽霊は角を曲がり、僕もそのまま身体を傾ける。
 同じに角を曲がって来た、何かに勢い良くぶつかった。
「!!…!」
 見下ろして一瞬はっとする。白いレースのドレス。あの幽霊とが恐ろしいほどに被る。その美しい顔が、いつになく白く、ぞっとするように見えた。ぶつかった衝撃で廊下に転げたまま、は静かに僕を見上げている。軽い身体だ。どうしようか迷って、手を差し伸べた。
「悪かった。」
 走っていなかったのは彼で、走っていたのは僕だ。その手をゆっくりととりながら、がなにかぼそぼそと呟く。聞こえないから、僕はそれを無視する。
「…それにしてもなぜこんな真夜中、こんなところに?」
 その言葉には白い顔をつ、と上げた。
「それはこちらの台詞だ。」
 確かにお互い真夜中に、いったいなにをしていたのだろう。
「…君ももしかしておいかけてきたのか。」
 ふいにが発した言葉は想定しておらず、僕は思わず間抜けに聞き返す。
「え?」
「廊下を意味もなく真夜中に走るようなタイプだとは思えない。」
 僕が彼を観察し、分類し、考察するのと同じように、彼もまた僕を観察し、分類し、考察している。
「僕は幽霊を見かけて、階段を昇ってきた。…でもいないみたいだ。」
 君とぶつかったから。とが薄く笑う。以前幽霊のことを話したときの微笑には遠く及ばないが、それでもかすかに、「君は?」と言って笑ったのだった。
「…僕もだ。」
 消えてしまった。と呟くとその言葉はぞっとするほど暗い廊下に響いた。曲がり角は廊下の行き止まりにあって、は角に向かって階段昇ってきて、僕は廊下側から角を曲がった。ふたりに偶然にも挟み撃ちされたにも関わらず、ここには僕たちしかいない。追いかけてきたはずの幽霊が、いないのだ。やはり幽霊だった、と、場違いな感想が浮かぶ。それと同時に、僕はの言葉に純粋な疑問を抱く。

「…あの幽霊は君についてきたんだろう?」

 追いかけたり探したりする必要があるのだろうか。言外のその問いかけに、は静かに階段に腰を下ろした。あまりほめられた作法ではないが、僕もそれに習い隣に腰を下ろす。敷きつめられた絨毯のために、床から立ち上る冷気は必要以上に小さい。ごわごわとした感触がどうにもむず痒くて落ち着かなかったので、階段の縁に臀部の骨を引っ掛けるようにして座る。足がどうにも余るので、折り曲げてその上に肘をついた。行儀が悪いな、兄のようだ。ぼんやり思うがこの暗闇だ。おまけに隣にいるのは異母弟の。別になんとも思わなかった。ここに自分の行儀の悪さに眉を潜めたりおもしろがったりする人間はいない。
 たまに、そう、ほんのたまに僕は兄のように、椅子に普段とさかさまに腰掛けてみたりしてみる。誰にも知られないように。
 は僕が座りやすいように何度か腰の位置をずらすのを静かに待っていた。ちょこりと座った彼は、寝巻きですらなく、ずっと起きていたのだろうということが見てとれた。
「…幽霊は確かに僕についてきた。」
 そっとの言葉が、闇に広がる。
「しかしあれは僕の守護霊などではないし…、」
 そのときの彼の微笑を、なんと言えばよいのだろう。泣き笑いのようだといえばいいのだろうか。彼は表情の豊かな部類ではない。もちろんその顔も、ほんの僅かしか変化しなかったが、確かにそう見えた。下がった眉は泣きそうなのに、口元が笑んでいる。

 泣きながら笑うなんて器用なやつだなあ。

 ふと浮かんだ言葉は自分のものではなくいつかの兄のもので、僕はそれすら忌々しく思い少し頭を振る。まだ兄と僕の間に奇妙な距離がなかった頃の話だ。僕の帽子を取ろうと兄が木に登って落っこちた、それだけの話。仕方がないなと言うように笑いながら頭に伸ばされた大きな手。今となっては思い出すらもなぜだかいまいましい。


「僕についてくるためにここまでついてきたわけではない。」
 一瞬混じった別の思考を追い払うように、僕はの言葉に耳を傾ける。一件謎かけのような文句。ではなんのために?視線だけで問うと彼は曖昧に口の端をあげた。躊躇するような沈黙のあと、彼は静かに、息を吐き出した。それが真っ白に空気に広がるのを見て初めて、僕はこの廊下がこんなにも冷えていたのだということを知る。そういえば僕は寝巻きのままだった――思い出すと急に背筋が大きく一度震えるのでたまったものではない。それに気づいたか、が、ふ、と口元を緩め、立ち上がる。
「…夜になるとここは冷える。」
 ごまかされると思った。とっさに首を振ると、彼は少し困ったように微笑し、僕の腕を取る。ヒヤリとした指先。幽霊のようだ。
「行こう、談話室なら明かりも暖もあるだろうから。」
 つい、と小さく裾を引いて、指先は離れた。は猫のように足音も立てず、階段を下り始める。その後ろに慌てて続きながら、僕は彼の足がちゃんと床を踏んでいることをわざわざ確認して、そしてこっそりと安堵する。


20090321/枳殻―――花言葉は思い出。
枳殻にはトゲがあるので登るのには適さない。
 












    


昔話は箒草の下
「あれは僕の弟だ。」
 暖炉の火は僅か燃え残って赤く、談話室は静かだった。普段から騒がしい屋敷ではないが、こんな真夜中には静寂が聞こえるようにしんとしている、その僅かな明かりを除いて、邸内は暗闇の世界。ふたりで並んで上等な革張りのソファに座る。しばらくの間沈黙が続いて、ひとり言のように口を開いたのは彼だった。
「――弟?」
 反射的に、聞き返した。だっておかしい。あの幽霊は、少女のなりをしていたじゃないか。白いレースの美しいドレス。青ざめた頬。黒髪長く、肩まで落ちる。廊下を滑るように浮遊していたその顔は。
(その、顔、は?)
 僕はゴトリと、ソファから弾かれるように立ち上がる。幽霊の顔。横顔が一瞬覗いた。そうだなぜ気づかなかった。あの幽霊の顔は、
、君は…!」
 初めて僕は隣に落ち着いて腰を下ろしたままの美しい"弟"を振り返った。無意識のうちに声が震える。そうだ、あの顔。あの幽霊の顔。にそっくりだった。いいや、あれはだ。青ざめた頬の少女。幽霊の少女。幽霊はの弟。その幽霊の格好を、そのままに当てはめてみる。幽を思い返した時に感じられる違和感。ひとつもない。ひとつも。そしてひとつ気づけば後はすべてが連鎖する。彼の細い足。細い肩。細い首。華奢な身体。声変わりもまだな硬質なアルト。なぜ、なぜ気づかなかった。彼は、は、
「少女…!!」
「静かに。」
 ファントム。夢まぼろしのような少女。が淡々とこちらを見つめる。大きな目。すっかり騙されてた――これは、少女だ。
「静かに。レギュラス、君にならはなそう。秘密にできるなら。」

 昔ね、とまるで見てきたように目を細めて、が話し出す。その声は少年のものにしか聞こえず、僕は困惑する。その鉱石に似た音。心の表面を、奇妙な寂しさで撫でて通る。
 ――女がいた。ひとりの女がいた。女は道ならぬ恋をして――そして子を授かった。女はすぐに、男に知れれば生むことはできないと悟った。女は逃げた。元々なにも、持たない身。身一つで逃げた。それでも男をあいしてたから。男は追った。彼には立派な――立派過ぎる家と肩書きと妻と子といろいろなものがあったから。そして女が、その鬼ごとに勝った。男が女を見つけたときには、彼女の腕には子供がふたり。男と女、一人ずつ。男にとっては三人目の男児で、初めての女児だった。真っ黒な髪をして、栗色の髪の女の胸に抱かれてた。男と女は激しく言い争いをして、母親のほうの奮闘に、男は一旦締め出された。悪態を吐いてからその日は帰った男が(つい最近、二人目の男児が生まれたばかりだったから帰らないわけにはいかなかった。)次の日そのあばら家を訪れると、そこはもぬけの空だった。女はまた逃げたのだ。今度こそなんの痕跡も残さなかった。

「我が母親ながらガッツがあるだろう?」
 茶化すようにが笑って、しかし僕は笑わなかった。再び彼は微笑を消して、本のないお話が進む。

 ――女は逃げて逃げて逃げてそして、その間に子供は大きくなった。女の子のほうは病気がちで、いつも小さく咳をしていた。
 ポツリと顔を上げて、がふと呟く。
 もっと裕福なら、きっとよくなったろうけどね、女にお金なんてあるはずなかった。それでもその三人はそれなりに幸せだったんだと思うよ。
 その横顔はどこか遠く、もうなくしたものを懐かしむ目だ。僕と同じ年で、ひどくそれは老いた表情だった。子供が浮かべるものじゃないことだけ、僕にもわかる。
 ――男の子はすくすく育った。家の手伝いもよくした。女の子のほうは成長するにつれて丈夫になっていったから、同じようによく手伝いをした。
「弟と、姉はそっくりでね。よく入れ替わって遊んだよ。」
 僕は混乱しているのか落ち着いているのかわからないほど、頭の中がめまぐるしく、それでいて凍えるように静まり返っていた。弟と姉。そして彼はついさっき、自分の弟だと言った。姉弟はふたりきり。姉と、弟。死んだのは弟。騒がしいのに静まり返った、僕の奇妙な内側は、まるでこの屋敷のようだ。ちっとも穏やかなんかではないくせに、不気味に口を閉ざしてる。の話は続く。まるで本当の、お伽噺。
 ――女はよく働いて、よく笑った。子供二人は彼女の笑う顔が好きだった。
「けれど、」
 が笑う。平坦な笑いだ。他人事のような。
 ――女が病気をした。随分重い病気だった。たちまち家族は暮らしに困った。女には頼る相手がひとりもいなかったから。どこからかぎつけたのか、男がやってきた。ある暗い晩だったよ。星屑ひとつなかった。男は戸口のところに立って言った。生まれた子供のその内の、片一方の男なら、引き取ろうとそう言った。娘はいらない息子を寄越せとそう言った。女は泣いて嫌がった。二人の子供を抱きしめて、どちらも嫌だと泣き狂った。それでも彼をあいしてたから。彼との子供をあいしてた。けれどももう以前のように、男を追い出して締め出すだけの力がなかった。男はいずれ自分に頼ることになるとだけ言って出て行った。そうしてしばらく月日が経って、今度は再び、女の子のほうが病気にかかった。重い重い病気だった。幼い頃の病魔はなりを潜めていただけで、奥の奥まで蝕んでいた。するとやはり男はやってきて、もう一度言った。治療費を出そう。新しい靴もドレスも家もパンも与えよう。条件はひとつだけ。息子を寄越しなさいと。娘の方は、見るからに死にかけていた。女は迷って迷って――けれども決められなかった。男が自分をあいしていないことは知っていたから。だから彼の息子は自ら言った。女には選ぶことができなかった。あなたの下へゆこうと。姉のためだ。飢えて凍えた母のためだ。彼は売られてゆこうと言った。男は1ヶ月後に迎えを寄越すと言った。
 想像の中で戸口の男は重苦しい暗闇を背負い、父の顔をしている。ブラック候、とが父を呼ぶ理由。僕はそっと喘ぐように息を吐いた。呼吸が苦しい。の話は続く。

 ――その矢先だ。彼が死んだのは。

 その彼が誰のことが、僕にはすぐに分かった。弟。

 ――御伽噺によくあることだ。男の妻は子供の数を知らなかった。息子だけだと思っていた。その嵐の晩、やってきた使い魔は男の子の方を殺し、ベッドに伏せる女の子の方を見た。命令は、子供を、息子を殺すこと。彼女も子供だ。しかし死にかけて見える。放っておいてもじき死ぬだろう。猟師は残酷な慈悲をかけた。女の子だけが残され、次の日心臓のない息子の亡骸に母は狂った。あくる日女の子の手元に薬は届いた。女の子は見る間に回復した。彼女は髪を切り、狂った母の代わりに喪主を務めた。かわいそうに姉を亡くし母は狂った少年として。彼女は彼になり、自ら切った髪で鬘を作って弟にあげた。男の子は女の子として死んだ。弟は姉として死んだ。姉の着るはずの黒いドレスを着て、黒い靴を履いて。そして灰になった。黒いドレスのまま。少女のなりをして。
 の目が、今はもう平静ではなかった。静かに、静かに、しかし激しく燃えていた。その目に宿った生命力に、圧倒されるようだった。すぐそこに、太陽がふたつあった。その目が暗闇でびかびかと、光っている。
「なんという屈辱、なんという暴虐!」
 が声を上げる。
「姉は死んだ!そうして弟を取り返しにきた。私はもういない。ここにいるのは奪われたの生!あるべき命!姉はもはや死んだものだ、今この体を操るのは誰でもない。の魂を求めてこの体が勝手に動いているだけなのだ。殺した証に使い魔はの心臓を持って行った。それを返せ。私の心臓を返せ。それはどこにある?どこに隠した?私の魂の在処を返せ。」
 その目線だけで、暗闇すらも射殺せる。そんな目をして言う。。君は誰だ。目の前で苛烈に燃えているは、確かに少年だった。少女はどこにいる?本当に本当に、弔ってしまったのだろうか?言いようのない恐ろしさに足が竦んだ。
「――あ、」
「返して。」
 それだけが少女の言葉だった。薄暗がりでの目玉ばかりがひかる。後に残されたのはやはり少年だ。死んでしまった男の子。心臓をなくした彼の弟。ならば"彼女"は、どこへ消えた?


20090327/箒草――別名をコキア。私はあなたに打ち明けます
 












    


麝香撫子の下には涙
 少女の話を聞いたあとで、まだ僕は夢幻の中にいるような気分でいた。どうやってと別れたのか、今自分がなぜ一人で歩いているのかすら思い出せない。
 ――返して。(返せ。)
 ふたりの少年少女の声が耳の奥にこだましている。ああ返せと言ったのはいったいどちらで、返してと言ったのは誰だ。幽霊の少女、それは少年。美しい弟、それは少女?どちらもまるで、気味の悪い夢のようで、飲み込みきれない。白いレースのドレス。あれは誰だ、あれは誰だ。細い膝、短い髪。わらわない弟。あれは誰。
 ふと自分の影が芝生の上に落ちているのに気づく。今日は満月だ。あああの滴るような月光がかなしい。いつの間にか僕は庭に立っていた。夜露にぬれて、植物は静まり返っている。まだ夜は深く、暗い、暗い。離れの窓を透かして、白い人影が見える。少女のなりをした幽霊。
(――噫、)
 恐ろしくもなんともなかった。ただ胸の辺りになきかがつかえて呼吸が苦しいだけ。
 もう死んだ少女、その名もなし。ほんとうに幻影だった。あれは過去の幻影だ。もう少女はどこにもいない。もはやしかこの世にはいないのだ。では少女はどこへ行ったのだろう。ここにいるのは確かにという少年だ。少女は死んでしまったと言う。しかしここにいる美しい彼は、彼ではなくて。少女はどこへ消えた?少年はどこへ?
 簡単なことだ。少女なら、ほら、あそこに。白い影は滑るように見えなくなる。探しているのだ。――失った心臓。失った自らの面影を。そして少年ならここにいる。今も燃え残った暖炉の火、静かに見つめているだろうか。それとも自室へ、帰ったろうか。
 夜明けまではまだある。眠る気には到底なれそうもない。広い庭をとぼとぼと歩いた。この屋敷は広すぎる。ふと一本の捻じ曲がった木を見つける。それは顔を覆い、呻き、慟哭する、母親のシルエットに見える。
 使い魔に指令を出した人。夫が新しく家に迎えると言った子供を消すために。
 もちろん使い魔たちはそれに従っただろう、の話したおはなしの通りに。夜闇を纏って冷たい空気を刃にして、眠る少年の小さな胸から命の核を抉り取る。それくらいは軽くやってのけるだろう。大事な大事な、ご主人のお願い。息子をころしておいでなさいと。隣でそれを見ていた、少女の心は?ああ、そうして少女に無慈悲な慈悲をかけて、去った使い魔たちの心はどこに?彼らが優しい気性であることを僕は知っている。母とてもちろん知っている――あれらは尽くすことをさいわいとするあまりに時折使役する側に忘れ去られるのだ、その気性の穏やかさを。ブラックの家にはたくさんの使い魔がいる。ああいったいそのどれがその任を果たしたのだろう。あのしわがれた固い皮の手の平。それで包んで、少年の心臓を持って帰った。ただ主人のためにだ、命令があったから。亡骸と少女を置いて。
 それを考えただけで眩暈がしそうだった。
 噫、母はやはり狂喜したろうか。使い魔がまだあたたかい小さな心臓を差し出した時に。喜んでそれをソテーにでもして食らっただろうか。
 どこかで夜鷹が鳴いて、そんなばかげた疑問に笑いが漏れる。
 いいや、やはりその時彼女は、ぎゃっと醜い悲鳴をあげて顔を覆い、慄き震えたに違いない。おお、おお!どうかそのおぞましいものを早く私の目の届かないところへやってちょうだい!そうしてやわらかい羽布団の中で、それらを悪夢と片付けようと、どんなに震えて凍えただろう。
 かわいそうな人。
(――かわいそうな人だ。)
 ふと右目から涙が落ちた。人を哀れんで泣いたのは、生まれて初めてだった。とその姉の話こそ哀れであろう、だのに一滴の涙も言葉も出なかった僕に、容易くあの母親は憐憫の情を抱かせる。
 弟を目の前で殺された少女、少女として死んだ弟、狂ってしまった母親、そして自らを弔い少年としてやってきた子供。
 少年を殺したもう一人の母親。
 殺したと思っていた存在が馬車からそのままの姿で降り立った時、彼女はどんなにか仰天し恐れ戦いたろう。何も知らないだろう父親。彼は少女の死に動揺したろうか。ああ狂ってしまった母親はどうなった?少女の墓にはなんと刻まれている?誰も知らない死んでしまった子供のこと。残ったもう一人の子供が、なんともうまく、立ち回った。そうして誰もが気づかずにいるのだ。もう失われたもののこと。ふたつとも失われて、ここに残っているのはただの幻。ただの骨、ただの肉、ただの骸、ただの子供。
 たくさんの事柄が頭の中を回るのに、多分僕のこの涙を生じさせているのは母のこと。
 かわいそうな人。どんなに彼女はの姿に毎日脅えて脅えて脅えて――。
(僕は冷たい人間なのだろうか。)
 少し屈みこむと下からひんやり冷たかった。ああ、なんて。なんて。かわいそうな人。どうして僕は、他人のために泣けないのだろう。。半分だけ、血を分けた弟。妹ではありえなかった。だっては、この地に足を踏み入れた時から――いいや、きっとこの屋敷を訪れる前に、少女を弔ってきたのだから。
 喉の奥がカラカラだ。だってこんなに、ひどく目の奥が熱いんだ。
 ふと兄を思う。彼は誰かのために泣いたりなんてするのだろうか。それどころか彼が泣くところが想像もできなくて僕は少し俯く。強くなりたかった。兄に負けないほど、強く。
 目玉が解けるようだと思った。涙は止まることがない。たくさんの感情が、ドロドロに溶けて流れ出している。しかしそのどれもに、名前をつけることができない。どうして、母上、、だれか教えて欲しい。どうしてこんなことになっているのか。父親を軽蔑できればよかった。母親を罵倒できればよかった。を嫌悪できればよかった。中途半端な自分の産物。冷たくも優しくもなりきれない。それでも立派な主たる父。それでもかわいそうな母親。ああそして僕の弟と妹。ひっそりとあこがれ続けた、兄という言葉。僕を兄にしてくれる存在。噫シリウス。あの光が強すぎて。
 兄のようになりたかった。まだ物知らぬ幼い日々、彼はいつも、正しいのだと思っていた。いいや、今もそれはおそらく真実だ。それがどんなに優しくなくても彼は正しい。幼い頃からそうであったように。

(――兄さん、)
 返事は返っては来ない。
 僕はどうすればいい?涙が止まらないんだ。あなたのようになれればと。あなたを嫌悪しながらどこかで願っている。そんな風に自分勝手に生きられたらと。素直にのために泣けるだろうか?
 きっと違うと、頭の片隅で誰かが小さくささやく。強くなりたい。兄のように?
 しかしそうなったとき、自分はどうなってしまうのだろう。異母姉弟に流す涙もなくしてしまった。そうして母親のために、流す涙がほんの一滴残されている。噫兄を超えた生き物になったら。左目からも涙が伝って、その頬を撫でる。顔を覆うとますます涙が出た。
 強い僕の兄、すべてを見ている。それを超えれば自分もまた、父も母も弟も子も、笑ってくだらない愚かしいと切り捨てられるようになるのだろうか。ああ。そうしたらきっと、もう泣くことも、心動かされることもなくなるのだろう。
 そうして、真っ暗な夜になる。
 ブラックの夜に。


20090328/麝香撫子――カーネーション。北原白秋が食べちゃった花。
純粋な愛、母への愛。
 












    


豌豆の下に眠る僕
 自分を殺した使い魔を、探すとが言った。それはまるで、昨日落としたハンカチを探すと決めたのと同じような調子の言い方で、僕はうっかり聞き逃してしまいそうになる。え?となんとか尋ね返した言葉に、はもう一度、使い魔を探すのだ、と淡々と告げた。まるでそこには、感情と言うものが見受けられないように思われた。あの夜、一瞬彼の見せた深い深いにくしみとかなしみは、普段一体どこに沈んでいるのだろう。

 いつの間にか、僕とは一種の共犯者だった。
 彼は秘密を持っていて、そして僕はそれを知りながら口を閉ざしている。それは立派な、たぶんこの家と家族に対する裏切りで、しかし僕はそのことを言葉にすることはどうやってもできなかったし、そうすることを選ばなかった。多分ほんとうに、かわいそうなのは誰なのか、僕は量りかねていたのだ。その頃僕には人の哀しみが、量や大きさで計ることができるもののように思えていた。しかし、実際の話を聞くと、僕にはわからなくなってしまったのだ。悲しい母親、悲しい弟、悲しい妹、悲しい父親、悲しい母上。かわいそうなのはだあれ?捲る絵本の先で少女があまやかに微笑む。ねえ、かわいそうなのはだあれ。
 本を閉じる。

「手伝ってくれないか。」
 一晩明けた次の朝、庭の木影で手招きをしながら、が小さく訊ねた。
 そこに昨夜、一瞬だけ窺い知れた少女の面影はどこにも見受けられず、ただただ美しい少年が、緑の影を受けてそこに佇むばかり。
「使い魔を探す。…手伝ってくれ。」
 反射的に頷いていた――なぜかな、どうしてだろう。の話を聞いたために、僕は彼に負い目を感じてでもいるのだろうか。しかし薄情なことに、僕はそんなに、彼に(彼というのもおかしな話かもしれないが、という存在は、"彼"以外の何者でもなかったのだ。)対してすまないともかわいそうだとも思っていなかったのだ。同情などより畏怖に似た感覚が僕には勝った。この事実少女である少年は――それすら超越して、少年だった。その不可侵の存在が、僕にはとても、尊く、そして恐ろしく感じた。だから僕が彼の手伝いを承諾したのは、おそらくの存在という魔力によるものだったかもしれないし、たったひとり残った弟への、兄としての義務感だったかもしれない。理由などいくらでも、後からつけられるだろう。とにかく僕は頷いた。本当のところほとんど反射と、興味本位と不安感から。がうっすらと微笑む。白すぎる頬。多分頷いたことこそが、いっそう僕たちを共犯者へと仕立て上げた。

 それに兄が笑う。
「お前ら最近妙に仲良くないか?」
「…別に。」
「ふーん?」
 なんでもわかったような笑み。やはり僕は、兄が苦手だ。
「まあ。別にいいけどな。」
 別に良いなら放っておいてくれればいい。なのにやはり、兄の視線はどうにも刺さる。はなんとも思わないのだろうか。こんなにもシリウスと言う存在を、うとましいと、おそろしいと、(ねたましいと)思うのは、僕だけなのだろうか?
「…行こう。」
 兄の目の中に映りたくなかった。を促して外へ出る。庭の緑は明るい。嘘のように。お伽噺のように。幻のように。夢のように。僕にはもうわかっている。これは目くらましだ、真っ暗な家の真っ暗な夜を隠す明るい緑色のヴェール。
「どうやって探すつもりだ?」
 不快なことは考えないように。嫌な考えを振り払うように発した言葉は随分急ぎ足になった。それにが、肩を竦めて少だけしニヤと笑う。
「あらかた自分で探せる分には探した…それで見つからないから、君に頼んだ。こちらの手札を晒してまで。」
 最後の言葉は牽制だろうか。真夜中に聞いた暗い童話を思い出し、僕は少し身震いをする。それが誰の罪の話か、僕は理解できないほど子供ではない。
「僕にはほとんど、僕妖精の見分けがつかない。」
 自分の発した一言が、僕にどんなプレッシャーを与えているか知らないように、台詞を続けながら、悔しいことにね、と感情のこもらない声でが唸る。
「だから君に頼みたいのだ。…君なら見分けがつくだろう。」
 不思議な銀の虹彩が、僕をじっと見る。父と、兄と、おんなじ目。僕が受け継がなかったもの。その目が僕を見る。兄にも父にもない、暗い影がその中に蠢くのを、僕は見ずともどこかで感じ取る。だから兄と父と違って、僕はこの目を恐れこそすれ、逃れたいとは思わないのだろうか。色のない目。そうだ、僕はやはり、その目が少しばかり恐ろしい。死んでしまった子供の目玉も、やはり同じに銀をしてたのだろうか。どうにもぞっとしない考え。
「…見つけてどうするつもりだ。」
 無意識に発した言葉は、発した後で一番自分の中にしっくりきた。言葉にしながら、同時にが哀れな僕妖精を魔法で殺す場面を想像し、どうにもそれが的外れな考えのようにも感じる。
 ブラックに仕えるものたち。あの妖精たちの性は、生まれたときから、うとましさよりいとしさにもにた憐憫が勝るほど知っている。あれらは使われることこそ至上の幸福と信じて止まない生物なのだ。仕えることこそ喜び。捧げることこそすべて。僕はそれを知っている。あれらの優しい気性も、融通の聞かなさも、盲信も、献身も、すべて。
 それすら見越してか、が笑う。時々僕は、銀の目玉には先読みの力でも宿るのかと邪推してしまうことがある。兄に対しても、父親に対しても、もちろんこの"弟"に対しても、だ。
「訊きたいことがあるだけだ。…安心してくれ。なにもしやしない。」
 僕の考えていることなどお見通しだと言わんばかりの口調に、僕は一瞬、カアと腹の底が熱くなるのを感じる。兄に対しても、僕は時折(いいや、常々と訂正しておいたほうが良いだろうか。)こういう憤りを覚えた。そうやって哀れなほどに尽くされながら、その献身を見下すような、その思考がやはり僕には推し量れない。
「きっとそいつが知っているはずなんだ…。一目見ればきっとすぐわかると思っていた。」
 けれどねそれは甘い考えさ。どこかで誰かが笑う。
「いざ何十匹という僕妖精を前に置いたら、どれがどれだかなんて分かりやしない。」
 君にはわかるか、とが少しくたびれたように首を傾げ、僕は頷きも首を振りもしなかった。妖精をみただけで、これが殺しだと、わかる自信はない。だがしかし、一匹一匹の見分けならば、つける自信――というのもおかしな話、見分けがつかないはずがないのだ。ブラックに僕に、仕えるものたち。そのひとつひとつを、見分けられない兄のほうが(まだ来て日の浅いは別として)驚きだ。
 だから僕は、動かなかった。それをどうとったのか、が静かに視線を落とす。
「――お願いだ。」
 少し掠れた少年の声を、それこそぞっとしない気持ちで、僕は聞いていた。



20090429/豌豆――永遠の悲しみ