桜の下には恋人、蓮の下には少女、藤の下には貴婦人が埋まっている。
紫陽花に想い人、水仙にはエコー、沈丁花なら銀の髪。
ではあの朝露に濡れた真紅の薔薇の下には?
――美しい五月の、青ざめた少年が。

  01.夫婦は椿の下
  02.兄弟なら梨の下
  03.背徳の蜜は林檎
  04.懼れは月桂樹の下に
  05.微笑は槿の下
  06.稀人なら時計草の下
  07.枳殻に登るは幽霊
  08.昔話は箒草の下
  09.麝香撫子の下には涙
  10.豌豆の下に眠る僕
  11.白妙菊は項垂れた
  12.使い魔の咲かす芥子
  13.合歓には夜の子供らが
  14.告発者は木蓮の下に
  15.薊の下なら狂気の沙汰
  16.木立瑠璃草は空を飛び
  17.そうして最後に薔薇の下























    



白妙菊は項垂れた
 屋敷僕は思ったよりもごく簡単に見つかった。それはもうが、あのがだ、思わず目をまん丸にして笑い出すほどには簡単に。
「君は、本当に、魔法使いだな!」
 笑いすぎて目の縁に涙を溜めたがなお笑う。
 それほどお手軽だったのだ。僕が指を鳴らす。大抵現れるのはクリーチャーだ。彼は僕が好き。僕はそっと、なるべく優しい声音でその年老いた僕妖精に尋ねる。僕もまた、彼が好ましかった。彼の声は深く、響く。しわがれた樹のような、ごつごつした手。兄に泣かされたあと、その手は僕の背を励まして撫ぜた。なんでございましょう、レギュラス坊ちゃま。いつもの恭しい挨拶。もちろんそのとき、彼は気まずそうにを一瞥しただけだった。妖精たちも、とづぜん増えた"坊ちゃま"に困惑しているらしい。
「クリーチャー。」
 はい、と見上げる瞳は子供のようだ。いつもそう。お召しはないか、御用はなにかと期待して。
 僕はの、命日を告げ、重ねて訊ねる。
「その日、外に用で出た屋敷妖精を知らないか。」
 彼は、はて、と首を傾げそれでもしきりに「ええ、ええ。」と頷きながら頭を捻った。何せ半年以上前のことだし、いちいち彼が他の僕の分のスケジュールまで把握しているわけではない。けれども坊ちゃまの"たってのお願い"である。流石にそこは、古参の彼だった。
「しばしお待ちを。」
 と言うや否やパチンと指を鳴らし、次の瞬間には十匹の妖精が僕たちを取り囲むように"姿現し"ていた。
 ああ、なるほど――。と僕は一人胸の中思い、は隣で僅かにぎょっとしているようだった。確かに少々、彼らが並ぶのは圧巻だ。右から順に、台所、掃除、庭仕事、図書室の管理、洗濯、衣装、郵便物と書類、その他総合的な事務管理、母の世話――それぞれの仕事を取り仕切る妖精たちだ。重大なお仕事だぞ、とその誰もが並んだ顔ぶれを前に嬉々としているのがわかる。クリーチャーが重々しくその日にちを告げ、外へ出た妖精を知らないかと訊ねた。
 たちまちそこら一体はキーキー声とダミ声ともろもろのお喋りの渦で、妖精たちが口論にも似た報告を始める。
 ―――ええ、その日はボティンがお魚を買いにお外に参りました!坊ちゃまがおいしいとおかわりされたかわいいお魚でございます!
 ―――私目もご主人様の御用で手紙を届けにマルフォイ家まで行きましてございますがどうかされましたでしょうか?
 ―――いいえ!その日外に出たのはスカトでございます!
 ―――馬鹿!坊ちゃまは夜中のことを言っておいでになるのだ!とんまめ!

「…夜中?」

 母付きの妖精が、ひたりと静まり返るような声音で訊ねた。はっと場が静まりかえる。誰もがおそらく察したのだ。レギュラス坊ちゃまの役に立てるのが誰かを。
 そっと頷いた僕の後ろに、を認め、小さな声でぼそりと「しかしご奥様は秘密だとおっしゃった。」と呟く。
「教えてくれないか。」
 その妖精の名を僕は知っていた。ズベン。母付きの三匹のうちの一匹。一番の年長者。ズベンの前に片方膝をついて、その目を覗き込むと、「坊ちゃまとんでもない!」と彼は泣き出しそうな悲鳴を上げた。その間にもう用はないとクリーチャーが他の九匹を追い返す。青い肌を更に青くして震えるズベンに、僕はクリーチャーにも下がってよいと言う。"良い子"のクリーチャーはしぶしぶながらもパチンと姿を消した。ズベンは少し落ち着いて、青ざめながらも毅然とした顔をして、静かにを見ていた。
「――ズベン。」
 ビクリと震えて、ズベンが目を逸らす。
「奥様は秘密にとおっしゃっいました!」
「ズベン。」
「奥様は秘密にと!」

「…それは僕にもか?」

 ずるいとわかっていても、僕はそれを尋ねた。
 はっとして、ズベンが「いいえ、」と思わず口からこぼす。老いた彼が、"奥様"の命令に従わなければという強固な意思と"坊ちゃま"のお願いに答えて差し上げなければという義務感の間でパンクしそうなのが目に見えてわかった。「奥様はレギュラス坊ちゃまに秘密にとはおっしゃらなかった…。」最後のほうが尻すぼみになって消えたのは僕の言葉が大層子供じみたものであることを理解しているからだ。それでも彼は、顔を上げてヒタリと僕を見据えた。自分自身を納得させ、諦めさせるようにもう一度同じ言葉を呟く。
 申し訳ありません奥様とその目の底が揺れている。彼はこれから自分で自分をきつくおしおきすることになるだろう。それでも僕に、応えようとする。
 僕は静かに「ちなみにおしおきは禁止だよ。」と告げる。
「命令でございますか?」
「そう。これは命令。」
「秘密を教えることも?」
「――それは、お願いだ。」
 わかりました、とズベンが噛み締めるように呟く。優しいから。
 キリリと腹の底が痛むのを僕は無視する。誰にも知られないように。
「あの晩留守にいたしましたのは我々の中でたったいっぴき。」
 の目は再び、あのぞっとするような無表情。エルとゲヌビ、残るにひきのどちらだろうか。それともズベン、自身だろうか。ズベン、エル、ゲヌビ。その三匹を、うっすらと思い起こす。呼吸すらためらわれるような沈黙の後で――ズベンがそっと、その名を舌に乗せた。
「…ゲヌビでございます。」
 彼らの中では一番若い、妖精の名が上がった。
 静かに告げられた名は、さらにその場を静まり返らせた。静寂すらも沈黙する中、それでもが次第にゆっくりと、声を上げて愉快そうに笑い。僕はついに破綻してしまったかと背筋を固くする。
 馬鹿な。彼はそもそも最初から、徹頭徹尾壊れてしまっている。心臓を奪われたあの晩から、彼にはもう人体を構成する上で一番重要だろうパーツが、足りないのだから。



20090430/白妙菊――あなたを支える。
ボティン――胃袋。
スカト――足。
ズベン・エル・ゲヌビ――北の爪。
いずれも星の名。
 












    


使い魔の咲かす芥子
「私たちでお弔いをいたしました―――主の血筋です。」
 庭の片隅で、そっと頭をうなだれて使い魔がつぶやいた。まだ昼前の、斜めから射す明るい日差しに、身体の右側が焼かれるように思った。大して暑い、わけではない。むしろ肌寒いほどの今朝の気候なのだけれど、それでもどこかひしひしと、太陽の光が眩しい。朝の光の中、屋敷妖精はくたびれた影のようになってここにいた。

 ゲヌビをあの後すぐ呼んだ。
 おそらく彼は、覚悟はしていたのに違いない。が馬車から降り立った、あの日、あの瞬間が訪れて以来ずっと。ずっと。
 不気味なほどにゲヌビは静かで、を認めてゆっくりと頭を下げた。お葬式の参列者のような、長く重苦しい礼だった。はもう笑いをひっこめて、じっとゲヌビを見ていた。本当に自分を殺したのが彼なのか、暗がりの中の錯乱した記憶と必死に見比べるようにして。

 ゲヌビの前には、小さく土が盛られてできた山がある。おそらくそこに、割れた皿が導のように刺されていなければ土が盛られていることにすら気づかないかもしれない――そんなちいさな山がある。
 ここまで僕たち二人を連れてきたゲヌビの言うことには、この割れた皿は墓標なのだと言う。墓石の下には苔があり、苔の下には土がある。そうして冷たい、土のしたには、もちろん骨が、埋まっている。つまるところはそこが墓だと、静かに静かにゲヌビが告げた。
 誰の墓?
 訊ねるまでもない。
「…僕のか。」
 ぽつりと呟くとそのままは、じっと黙ってその名前のない墓標を見つめた。そう。それはの墓だ。彼自身の墓。はそれを見下ろしている。妙に穏やかな瞳で。僕はやはり、それにかすかにぞっとする。
 僕の隣でゲヌビもまた、奇妙なほど静かにを見上げて言葉を発した。
 それは本当に、葬列の最中ひそやかに交わされる会話の響きそのもので、僕はまるで、誰かの死も、葬式の意味も、分からず大人たちの声の小ささと密かさに戸惑うばかりの子供のような、そんな気分にさせられる。
 しかし実際本当に、目の前の一人と一匹は、僕の預かり知らぬ世界を知っていた。殺したものと殺されたもの、奪ったものと奪われたもの――使役されたものとなおとどまったもの。そしてどちらも、失われ、損なわれたもの。それでもなおも、生きている。到底理解できる、世界ではなかった。
「あの時は恐ろしい思いをさせて申し訳ありませんでした。…まさか黄泉返られるとは。」
 つまり、僕はすっかり蚊帳の外だった。
 使い魔がそっとその不思議な目玉でを見る。まるでなにもかもみな一切合財を知っているような、穏やかに深い眼差し。
「…あなたのお名前はなんと仰るのです?」
「…。」
 がここにきて初めて、静かに微笑した。まるで不自然に思われるタイミングで、それはもう美しく穏やかに。それにゲヌブが、その微笑とよく似た部類のしわがれた声で少し笑う。
坊ちゃま。」
 まるでなにか、大切な言葉だというようにゲヌブが彼の名を繰り返す。
「ああ。そうだ。ここにそう彫っといてくれ。」
 初めてが、屋敷妖精に親愛ともとれる表情や態度を見せたように思う。彼らの間に会った蟠りはまるでどこかへ消えうせて。はい、と静かに応じた使い魔が指を鳴らすだけ。パチンという乾いた音と一緒に、その白い骨のような歪な形をした皿の滑らかな表面に文字が浮かんだ。。その名はなんと、こんなにも空恐ろしいというのに、やさしく聞こえるのだろう。
 どうして彼らは、互いを恐ろしいとも思わず、こんなにも穏やかに微笑と会話と親愛を交わせるのだろう?
「ではこの下に、僕の心臓はあるのだろうか?」
 僕の思考など知るわけもなく、のその問いかけに、使い魔はそっと首を横に振った。
「いいえ。」
「いいえ?」
 僅かにの、感情にひだが立つ。なぜかそのことにほっとして、僕は少し息を吐く。時にうねりを上げて咆哮する狂気よりも、静寂に包まれた微笑のほうが、恐ろしいことがあるのだと僕は学ぶ。それでもゲヌブは穏やかなままで、つられるようにの感情の表面に一瞬たった波も、すぐに不気味に静まり返る。
「はい。その質問の答えは、いいえ。ここにはございません。ここにあるのはあなた様の御髪でございます。証として心臓と、その漆黒を一房頂いた。心臓は奥様が持っておられる。」
 そんなに話してもいいのかい、と思わず訊ねそうになった。奥様との"秘密"を、彼は喋りすぎている。
「へえ?」
「一度は処分をお命じになりました。しかし手元から放すのが、きっと恐ろしくなったのでしょう。どうしようもなくて、ただただ恐ろしくて、壷の中にしまってそしてその壷ごと、封印しておられる。」
 それは本当に、喋りすぎだ。
 しかし僕にはその言葉を止めることはできなかったし、そうする術を持たなかった。その場にいること自体、多分場違いなくらい。だからただ僕にできるのは、すべての会話が終わった後で、この屋敷妖精に「お仕置きは禁止だ。」といたわりをこめて言いつけることくらいしかないのだ。幼い僕のおしめを代えて、幼い僕の馬の代わりを務めたりもした屋敷妖精に、僕のできることはこんなにも少なく、薄っぺらい。
「…それはどこに…?」
 が訊ねる。その声はやはり静か。
 ここで初めて、ゲヌブが首を、否定以外の意味で横に振った。の眉が少し中央に寄る。
「どことはお答えできません。と、いうよりもわたくしも知らないのでございます。それは奥様だけの"秘密"でございますから。」
 それじゃあわからない。まるで生まれたときから世話をされてきた乳母に対するように、が唇を尖らせ、しかたがありませんな、とゲヌブが笑う。なんとも奇妙な、連帯感。置いてけぼりな気分を、なぜか僕が味わう。そして同時に、どこか頭の冷静な部分が、その置いてけぼりをよろこぶ。僕は殺したことも、殺されたことも、うしなわれたこともない、と。
「わたくしの推測でございますが――申し上げるのならば、よりお側に置かれたほうが、どんなに恐ろしくともあの方はそれでも安心できるでしょう…。かわいそうな奥様。」
 最後の言葉はほとんど消えかけて、その分それが彼の心の底からの嘆きなのだと分かる。
 ――お前こそかわいそうではないのか!
 心の中に叫びが広がるのに、僕の口のなかはカラカラに乾いて呼吸の音すら出やしなかった。かわいそう、と僕の口からその言葉が出た途端、それが蔑みの言葉に変わる気がして恐ろしかった。親愛と慈愛と慰めと同情の、憐み深い言葉であるはずなのに。
 僕がそっと頬を白くするその間に、 そして、とゲヌブが顔を上げる。その醜い顔で、を見る。
「かわいそうな坊ちゃま。」
 しみじみとした響きがあった。心の底からの憐憫と意識しない内の共感の、こめられた言葉だった。
 きょとりと目を見開いた後で、はじけるような明るい声音で、彼が笑った。
「お前たちだってかわいそうだよ。」
 その言葉もまた、僕のあずかり知らない感情が込められている。しかしの、その奇妙に自然な明るさを、表す言葉を僕は知らず。
 花をくれないかとが言い、パチリと指を鳴らしてゲヌブが白と赤との芥子を出現させた。彼らは一緒に、白い皿の前に花を置き、穏やかに微笑し合う。ばかげてるよなあ、自分の墓に献花だなんて。ぼやくにゲヌブがそんなことはございませんとも、と静かな声で答える。
 そうしてまた、僕には一生かかっても出せないかもしれない響きの声で、一人と一匹は笑った。
 僕はやはり置いてけぼりのまま、殺し殺され使役されとどまり甦り失われ損なわれ――そうしなければ得られないものなのなら一生そんな響きで話せなくていいと、どこか遠くでそう思っている。


20090430/芥子――(赤)慰め・(白)忘却
 












    


合歓には夜の子供らが
 と並んで、談話室の門を潜る。大時計はまだ朝の10時を指したばかりだというのに、日暮れのような疲れを、僕はずっしりと肩に乗せていた。
 ソファに座って一息つきたい。半ばオアシスを見るような気持ちで首をもたげ――僕は凍りつく。
 兄がそこにいた。
 暖炉の前のチェストにゆったり腰掛けた彼は、一枚の絵画みたく完成されて見える。長い足を組んで、小さな鼻歌。彼は待っていたのだ。びろうどの椅子に腰掛け、肘をつき。火掻き棒でぼんやり薪をくべとろとろと燃える火を眺めながら、僕たち、いいや、が来るのを。
 こちらを振り返ることもなしに兄が告げる。
「やあ親愛なる弟諸君…待ってたぞ、。」
 はびくともせず、兄などいないかのように静かに直立していた。ただ暖炉の上に置かれた皿を、興味なさげに見つめている。
 しかし僕はだめだ。その言葉だけで悪戯を見咎められた子供のように、肩が震える。そうだ、僕は兄が恐ろしいのだ。この人が家族だとか親戚だとか、そういった血の繋がりなどひとつも勘定に入れずに、自分の価値観だけで他者を秤にかけ、切捨てることができることを知っているからだ。(そうして今まさにこの家が、彼の皿の上でどんどん価値を軽くしていることも。)
 シリウスはゆっくりと立ち上がると、こちらを振り返る。明かりの逆光で、その輪郭が赤い。
「何か用だろうか。」
 カチリとシリウスと目を合わせて、淡々とが言う。僕は少し疲れたから部屋へ戻りたいんだけれど。確かにその顔色は、今朝からいつも以上に白く、時間を追うごとに漂白されてゆくようだ。しかしそれでも凛としたその無表情は、死も恐れも苦しみも、何も知らない天使の兵隊のように見える。それにシリウスが、手間はとらせないさと笑う。
「お前に聞きたいことがあったんだ。聞くまでもなく簡単にわかるかと思っていたんだが、どうにも解せないものだから。」
 だから直接訊くことにした。ニカッとごく普段の人好きのする笑みをシリウスが浮かべ、それにもまたぞっとするような微笑で返した。片方は夜の中にあって太陽のような笑いだ。そうしてもう一方は夜の中にあって真昼の月のような微笑だ。どちらも同じ、兄妹のもの。兄弟のもの。
 やはり僕は、この二人が恐ろしい。こういう時、確かな血の繋がりというものを感じるから。
「なにが訊きたい?」
 のそれは、もはや挑発するような響きがある。
 決して誰にも気づかれないように、心の中で肩を竦めた僕をよそに、怖いもの知らずだとシリウスは笑う。彼は自分がどれだけ恐ろしいか、もちろん自覚している。

「なぜここに来た。」

 確かに問いは簡潔だった。
 が件の、ゾッとするような笑い声を上げる。
「呼ばれたんだよ!我らのお父上に!」
 それは愉快、と兄もつられて笑う。しばらく談話室にふたりの場違いな笑い声が響き、やがてそれも高い天井に吸い込まれて消える。カチリ、と時計の長針。ふたりはもはや笑ってはいない。
 もう一度聞こう、と兄が言った。有無を言わさぬ響きがあった。
「なぜこに来た、。つらく苦しいだけだろう。」
 兄が静かに告げる。
「そしてお前は、そうなることなど簡単にわかっていたろうに。」
 レギュラスは小さく、身じろぎをした。そうだ、分かっていたはずだ。彼は身を堅くする。それでもなお少年は、はすべてを知っていてここへ来たのだ。おそら自分以外が知らぬ、その壮絶な理由を思い、やはり僕は彼が人間ではない兵隊のような錯覚をする。痛みも苦しみも、知らぬようだ。知らぬから恐れずにいられるのだ。そう思うほど、彼は悲しい、苦しい、痛い、の表情を浮かべたことがない。それともやはり、そういったものを感じる心と言うのは、心臓の辺りにあって。それを失ったには、そういったものを感じることが、もはやできなくなったのだろうか。
 今もなお少年はうっすらと微笑したまま直立している。シリウスと、それから僕とを見つめ、悟りきったような視線を湛えている。夜のように、ただそこにいる。それだけだのに恐ろしく、冷たくそして、不気味にあたたかい。優しい暗闇こわい黒、青い光の、ただの夜だ。その微笑は静か。目玉も同じ。あまりにしんと、静まり返っている。
「それでも来た。お前はきた。なぜきた、。争い呼ぶためか。あの男が憎かったか。お前とお前の母親を捨てた。そして俺たちが、あの女が憎かったか。」
 シリウスがなお問う。
 彼の銀の目はいつも、人の心の隙間に冷たい刃を差し込むように他人を見る。その何かを見透かす、人の心のやましい部分を抉り出す目。それをまっすぐ向けて、彼はを見た。僕などはその目で見つめられると、内心ビクビクしてしまって、とても苛つかされるものなのだけれど、はびくともしないでその視線を真っ正面から受け止めて立っていた。
 時がゆっくりと、流れているようだった。まるでそれは水飴にでもなってしまったみたいだ。どろりと僕たちを取り巻いて、肌をなめながら流れてゆく。
 ふいにが、その微笑を消した。静寂。宇宙の真空だ。
 それでもなお、彼は沈黙を保っていた。もう一度、兄が告げる。
「答えろ、。お前ここへ来る前から病んでいるな…もう長くはない。知っていたんだろう。」
 そこで初めて、はふっと力を抜いたように見えた。その言葉に凍りついたのは、おそらく僕のほう。。その美しい子供は、確かに初めて見たその日よりも、白く透き通ってやせ細っていた。そして僕は、そのことに、気づきながら、見ない振りを重ねてきたのだ。――いいや、見えなかったというのが本当かもしれない。から発せられる静かながらに苛烈なエネルギーは、彼の肉体の衰えを、まったく感じさせない。
「…それを訊いてどうしたいんだ。」
 僕を追い出すのか?僕を憐れむのか?僕を憎むのか?
 静かな声音。その不思議な透き通る声も、来た頃から少しも変わらない。病など感じさせぬ、堂々たる響き。
「聞いてから決めるさ。」
 すべては彼の、天秤が傾くまま。
「…ただ、」
 しばらく沈黙があった。やがてそれを破ったの声は、本当によく通る。深い静寂に透き通るような、鉱石をたたいたような"音"。
「ただ興味があった。父親がどんな人間なのか。」
 彼は嘘をついている。
「最初からお話をしようか?だいたい知っているんだろう?オリオンが浮気して、外で子供を作って、その子供を引き取ったんだよ。なぜって浮気相手、僕の母親が病んだからだ。生まれたときに縁が切れたというか、僕の母親に縁を切られた息子をそれでも彼は探してたそうだよ。母が病に伏してあちこち引っ越すなんて真似ができなくなったものだから見つかってしまったのさ。―――まあ正直な話母が病んでは暮らしようがなかったし。それでオリオンが訪ねてきて…初めて知った。父親が彼だと。たから来た。会いに来たんだ。それだけ。」
 は嘘をついている。僕は兄には隠された背中を、ぎゅっと固くする。が兄を、危険視するのは当然だ。そうして彼の、力をあなどる――というのはおかしい。は十二分に注意している。しかし我々の兄上に必要な警戒は、十全に十全を重ねてもなお足りない。はまだ、そこまでシリウスを知らないのだ。
 逃げろと思わず言いたくなって、しかしそれはおかしい話。なぜ逃げる?なぜ逃がす?これは弟。僕の弟。しかし心臓を失くした兵隊でもある。この家に仇なす――僕の身体は、ピクリとも動けない。
 の目がまた沈黙する。沈黙。兄だけがその眼差しをますます研ぎ澄まして、もうほんとうに一振りの懐剣のようだった。銀に透き通り、刺し貫くそのときを待ってる。
「…ほんとうにそれだけか。。」
「他になにが?」
 冷たい応酬だ。なぜこんな時、自分の喉から何の音も発せられないのか、そればかりが口惜しい。文字通りの、兄は特別。そして“”も、また特別なのだ。
「お前は最初から嘘をついていたな、。」
 そしてそれは罪だと、言葉の後ろで"正しい"シリウスが言う。

「お前は女の子、俺の妹だろう。」
 最初から知っていたよ、お前が馬車から降りるそのときから。
 初めての表情が、驚愕、の形をとった。兄が不敵に、ぞっとするような美しい微笑を浮かべる。
「お前は嘘吐きだ。父が呼んだのは"弟"。じゃあお前はなんだ?さあ。お前は誰だ?血縁なのは間違いないだろうが。」
 だってお前はすべてがブラックだ。兄の声。
「なぜきた。」
 が初めて、うろたえ、呼吸をわずかに乱して僕を見た。彼は思い知ったのだ。自らの兄の恐ろしさを。そう、は今初めて気づいた。ひょっとしたら、シリウスは、自らの心臓がないことも、そうして今その在り処を聞き出して帰ってきたところなのだということも、つまり彼の、真実の目的すらも、知っているのかもしれないのだと言う事。それでいながら、敢て訊ねているのかもしれないということ。同じ銀の目でも、そこまで見抜けなかったようだ。が初めて、うろたえている。僕を見て、何か言おうと口を開きかけ、やめる。
   ―――双子?
 紳士の来た晩、僕を見て呟いたとき、その眼の中にあったのと同じ光が、今またの中にある。その目に映った必死な光を、僕は名づけることも掬いあげることも、今なおできなかった。
 その間に見る間にの表情は波が引くように消えてゆき、最初の頃のあの空っぽの無表情。まさに心臓を失くした少年におあつらえ向きの、痛みも悲しみも、なにもない顔。
「父がお前の性別を知らなかったとは考えられない。」
「そうだろうか?」
「ああ。何かだあったんだ…"弟であったはずのもの"が"妹"に換わっているというのに我らが父上様が気がつけないほどの 何か。ずっと探していた息子が病んでいると気づけない…いいや気づかせない 何か が。」
 シリウスが少し笑った。僕の一番、嫌いな類の。それはなんという類の笑みだろう。冷たい。冷たい。とても、とても。

「お前は誰だ。」
。」

 間髪いれずに彼が答えた。すべてを知ってそれでもなお、それは真実と思われた。
 しかし兄は、この期に及んで、とでも言うような笑みで笑う。
「いいや、違うだろう。お前は、」
 兄が何を言おうとしているのか、僕にはわからなかった。しかしの目が見開かれ、兄のものも同様に大きくなった。一瞬、ほんの一瞬だ。
 が兄の真正面にいた。
 その人差し指が、兄のくちびるに触れる。それはまるで、ほんとうに一瞬の動作。の目は今度こそ真っ暗な絶望を写しこんでいる。光など見えない。光など最初から、ない。先ほどの光はなんだったのか、僕にはわからない。さっき映っていた光は、の中にあったものではなかったのだろうか?例えば水面が星を写すように、何かが映りこんだだけだったのだろうか?もはや先ほど、ほんの一瞬でもシリウスに脅え、うろたえたはいない。シリウスに脅えてうろたえて恐怖したのが彼の中に僅か残った"妹"の部分だったのだとすれば、彼はそれらの表情を消したそのときに、今度こそ完膚なきまでにその部分を弔ったに違いない。少年が言う。
「言うな。」
 ぞっとするような声音だった。その少年のか細いからだのいったいどこから、その声が発されているのか想像もつかない。けれども僕は、、違うことに驚愕してもいた。兄の表情だ。恐れているのか?驚いているだけなのか。あの兄の目が、大きく見開かれを見ている。立場が逆転しかけていることを、僕は知った。
「死ぬことなんかこわくない。」
 少年は言った。たしかにその時、は少年だった。
 美しい少年だ。初めて見た時より少しやつれた。会った時と変わらず、物憂げでまるで光に透けるように青白い。真っ黒な髪。ブラックの血。長い睫のその影が、白い頬に落ちている。その銀の目玉はまっすぐ、そう、本当にまっすぐだ。僕の目玉の奥。その心の内の内まで静かに静かに見つめるように、ただまっすぐ。細い首と手足。ばらのいろだった頬は白く、光を受けて雪のよう。くちびるは早咲きのばらのつぼみ。今は少し、青ざめている。白と、黒と。美しい。光と影の中にいて。華奢な体。

「――ではは何を恐れてる?」
 表情を消して、まるでただ景色を眺めるようにして、シリウスが訊ねた。
「…真っ暗な夜を。」
 がそっと、囁くように言葉を吐き出す。
「なぜあなたがたはこの暗闇で平気なのか。」
 質問の先には、僕も含まれていた。
「…ブラックだからだ。」
「…星だからだ。」
 僕たち兄弟の回答は、同時でそれぞれ答えが違った。それこそがこの家の、すべてだった。


20090502/合歓――安らぎ
 












    


告発者は木蓮の下に


 ブラックと星。
 その答えの後に、なんともいえない沈黙が降りた。僕は兄が『ブラックだから。』と答えたことに驚いていたし、兄のほうもおそらく同じだろう。これではまるで。
 僕の思考がなにか形をとる前に、クツリと言う笑い声が妙に大きく響く。兄だ。やがてそのクツクツという笑いは大きくなり、声高な哄笑へと変わる。広間の高い天井に、兄の笑い声がうわんうわんと響く。なにがそんなにおかしいのか、腹を捩って笑い続ける兄が、違う世界の生物に見える。ゲラゲラとでもいうべき笑い方は、きっと母がこの場にいればはしたないと眉をしかめるだろう。
 兄は笑う。僕もも、決して笑わない。
「ああ、そうか!星、星!星、ねえ!なんて愉快だ!」
 噫あなたこそその、一等星であるのに。
 彼は笑う。それが馬鹿馬鹿しくてしかたがなくって、おかしくってしかたがないと言って。僕は自らの回答に兄が大笑いするのを聞きながら、不思議と怒りは沸いてこない。彼がその答えをたまらないジョークだとわらっているわけではないと、どこか頭とは別のところが理解していた。
「いいや我々はブラックだ。ブラック!ブラック!真っ暗な夜!誇り高きブラァック!馬鹿馬鹿しい!」
 星であることとブラックであることは二律背反の決まり事。光であることは闇であること、闇であることは光であること、どちらも同じ、事象でしかない。
 なぜ兄はそれを認めないのだろう。
 屋敷中に響くのではないかと思うような大声で、兄が声高に笑う。兄は常に、光たらんとしているのだろうか。それとも正しく、闇であろうと?シリウスにはどこか、偏りを、どちらかに偏ることを求めている節があると思う。光と闇のあわいに、佇むことは彼の選択肢にないのだろうか。彼は自らを、ブラックだと信じている。真っ暗な夜だと。僕にはもう、彼はおかしくなってしまったのではないかとすら思えた。その瞳の狂気にも似たひかり。僕にはそれが、理解などできやしないのだ。それが天才と秀才を分けるならば、僕は決して天からのそれを望みはしないだろう。
 兄は笑う。なお笑う。が部屋の影の中、じっと立っている。どうしてこんなことになったんだろうかと、僕はぼんやり、考えている。どこから、なにを間違えて。いいや、それとも初めから、何も間違ってなどいなかったのだろうか?
 シリウスは大犬座、空の天辺。太陽に変わって天空の首座に立つ。天を焦がすもの。レグルスなら獅子座、獅子の心臓、小さな王。太陽と月にしばしば隠れる。オリオンは巨人、空の狩人。みっつならんだベルト、犬を駆る。ならジェミニ。水晶の宮で並んで笛を吹く。最初に死ぬのは左より暗い右の星。
 噫そうやっていきてきた、我々は星ではなかったか。だからこそ、この暗闇、立っていられるのだと信じていた。兄は言う。我々は暗闇の夜でしかないのだと。輝き放つ、星ではないと。しかしそうでなければ、どうして立っていられただろう。暗い夜の真ん中で。僕たちはそこに生まれついた。我々自身がその夜ならば、では我々は、どこに立っているのだろう?闇が、影が立つのはたったひとつだ。眩い光のその中に?

「我々はブラックだ。」

 兄の声が不思議に遠い。
 はははと彼が笑う。嘲笑っている。自らの血を。まるで本当に他人ごとのように。
 僕はもう、ずいぶん前から知っていた。あらゆるものを勘定に入れずに、自分自身の天秤だけで、彼が物事を量ること。その結果、彼はただ、この家が嫌いなのだということ。例えば身内に犯罪者が出たら、彼はなにひとつ躊躇なくその罪を告発するだろう。しかし仮に世界が、この家が罪だと認めたものも、彼の中で正しさを認められればそれを擁護するだろう。彼は自由で、なにより己が法だ。
 ブラックだから。
 何者にも縛られず、気高く、自由で。
 だから多分兄は、誰よりもブラックなのだろうと僕は思う。
 ブラック、それを兄はおそらく皮肉で言ったろう。しかしそれこそ真実だ。ブラックに価値を見出さない彼こそが皮肉なことに真のブラック、そしてそれ故、僕は兄に価値を見出すことができない。おそろしかった。彼はいずれ、この家を捨て、この家に仇なすだろう。
 ブラックの黒は夜ではない。星を取り巻く宇宙の真空、その冷たい黒。ひとつ星抱えて、ブラックは君臨する。黄道上の城、自らの恒星の上に。その二つを従えて、始めて我々は自らの君主足りえるのではなかろうか。それが相反する名と、姓とを持って生まれたブラックの生命。
 しかし兄はわらう。ブラックであることを。それがさながら、どうしようもなくくだらないことであるかのように。彼こそがブラック、そのものであり、全天一の綺羅星であるのに。自身の放つ光が強ければ、きっと辺りはずっともっと真っ暗。彼は太陽と同じに、自らの影を決して見ないのかもしれない。

「お前もそうだろう、。」
 問われては、ただ口を噤む。彼もまた、明るい星。命を燃やすように、隣の星に分け与えるように燃える彼の視界にも、辺りは暗く映るに違いない。
 やっと笑いの治まったらしいシリウスは、少し疲れたように見える。その頬に白い光がまっすぐ窓から落ちるのを見て、ようやくまだ昼前なのだと思い出した。外は明るく、だのにこんなにも、室内は暗い。星々の暮らす館であるはずなのに。やはり自分たちが星であるというのは、僕の勝手な願望なのだろうか。
「なぜここへ来たか、俺に教えてはくれないか。」
 あきらめたような、改めて確認するような響きがあった。はなお黙ったままで、それにシリウスは、また少しわらう。だいたい見当はついているんだ、そのひとりごとじみた呟きに、がピクリと肩を震わせる。
「お前はなにを探している?」
 躊躇もなにもない問いだった。
「………。」
「夜中に徘徊するお前は夢遊病ではないだろう。なにか明確な意志を持って、お前は屋敷を歩いている。」
 やはりは沈黙を保ったままで、兄の声ばかり、寒々と続く。
「…幽霊はお前に着いてきた。お前自身そう言ったな。」
 初めての見せた微笑。それと共に告げられた言葉。あのときが夢のように遠い。なぜ彼は、あの時のまま、望まれない客人のままでいてくれなかったのか。彼はもはやこの家にとってひとつの印だった。そしてそれに、僕は気づき始めている。の来訪が、なにかひとつの時代を崩し去るのだ。予感がしていた。それがたったひとつ、銀の目を持たない僕が確信している予感。

「幽霊は夜中、屋敷を歩き回る。しかしお前についてきただけなら、幽霊は歩き回る必要はない。お前についていればそれでいい。」
 あれは守護霊ではないしかといって永久に存在するゴーストたちとも違う。あれはもっと弱い、残存思念の塊だ。なにかあまりに強い悔いが、この世に映し出す、死者の鏡。兄が言う。
「幽霊は歩き回っている。なにかを探している。お前もまた探しているのではないか?いや…、むしろお前が、幽霊についてきたんじゃないのか?」
 瞬きもせず、銀の目が見つめ合う。

「幽霊が探しているものをお前も探している。幽霊が探しているから、お前も探している?それともお前が探しているから幽霊も探しているのか。…どちらが先かは大した問題じゃないな。卵と鶏と同じことだ。大事なのはいま鶏という種が存在することだ。だろ?そして我が家には幽霊とお前。奇妙な話しだ。そうは思わないか?」

 なにが、とが淡々と述べた。
「…あの幽霊は誰だ?」
 それに対して返された問いも簡潔。淡々としている。
「お前は誰だ?幽霊は女、お前もそうだ。それはおかしい。ここには女の子が二人いる。おかしいだろう?お前の名前を聞けばすぐ分かることだ。俺たちの異母兄弟は二人。双子だろう?幽霊がそうか?なら双子は女の双子だ。しかしオリオンは"弟"がいると言った。おかしいよなあ?すでに三人いることになるんだ。俺たちの弟はどこにいる?いいや、そもそも一人多いんだ。お前の名なら、二人しかいないはずなのに。」
 ほんのかすかにがわらう。シリウスはひとつ思い違いをしている。幽霊は女の子ではない。凍ったような微笑だった。それになにか、読み取ったかのようにシリウスの声のトーンが下がる。
「…………"ここ"にいるんだな。」
 確信めいた問いかけだった。
「"弟"はここにいる。」
 むしろにこうして問いかける前から、彼はこの答えに確信を持っていたに違いなかった。
 神話にちなんで付けられた名、天上の物語を追った名前。それらがすべて、シリウスに真実を読み解かせた。
 は答えない。ただその真っ白に静まり返った表情だけが、いつになく正直に思える。話してはいけない。なにも話してはいけない。喋れば人は嘘をつき、銀の目はそれを見破る。喋ってはいけない。けれどすべては照らされる。相手はシリウスだから。僕はただ白いの頬を見ていた。黙っていても、いなくても同じこと。それが分かっていても僕は、のようにその口を割らずにいられるだろうか。
「女の子のお前が弟になってやってきた。ならば―――、」
 シリウスは一番星。空の上からすべて見ている。その銀の目。銀の目。
「弟が女の子の形をしてやってきても不思議はないんじゃないか?」
 シリウスの目が勝った。がその視線を肺の底から搾り出すようなかすかな吐息と共に地面に落とす。その目蓋が落ちるさまは、祈りにも似て。
「例えば女の子の幽霊とか。なあ?」
 兄の言葉は、どこまでも真実で、無慈悲だった。


20090827/木蓮――荘厳 ・気高さ
 












    


薊の下なら狂気の沙汰
「さあ。弟はどこにいる。」
「……知らない。」
 長い長い沈黙の後で、意地を張った子供の声で返事があった。
「いいか、なにも俺は興味本位で尋ねているわけじゃない。俺の弟だぞ!」
「…僕のだ。」
「お前もだ。。」
 驚いた。久しぶりに、シリウスのそんな声音を聞いた気がした。うんと幼い頃、自分に向けられていた響きのように思う。どうして僕はそれを失ってしまったんだろう。
 改めてまじまじとシリウスを見た。まっすぐな瞳。夜の中にあって青白く燃える太陽の――銀の目。折れたのはのほうだった。

「……彼女が隠している。」
 彼女。
 その三人称が当てはまる人間は、表向き、この家に一人しかいない。
 僕は恐ろしくて、シリウスの顔を見ることができなかった。見なくともわかるからだ。その瞳の真剣な色、力強く、頼もしい"兄"の色。それがすうっと褪めてゆき、変わる。変わる。それが見ずともわかる。部屋の温度が下がるのを感じる。彼の目はもはや。
 バン、と大きく踵を鳴らして、シリウスが踵を返すと歩き出した。
「シリウス!」
 一拍遅れて慌てて僕が呼ぶ。当たり前のように呼べども答えはない。彼は大またで歩いていく。歩いていく。
「――待って!」
 切羽詰って駆け出した僕の様子にも気づかないように、はまだそこに立ち竦んでいた。心ここにあらず、と言った具合に項垂れている。
 僕には彼に構っている間はなかった。彼はわかっていない。そして僕には分かっている。兄は、兄はその足で彼女を裁きに行くのに違いなかった。哀れのかけらなどひとつもたれずに。彼の目はもはや断罪者の目だ。雪の上を裸足でやってくる、神様の目。狩人の罪を裁きにやってくる。やってくる。彼は裁くだろう。自分の、母親をも。
(そんなのはおかしい。)
――おかしいのはお前だ。
 ふと頭の中に聞いたこともない兄の言葉が木魂する。
――おかしいのはお前だ。お前が哀れをかけるのは、母親だけなのか?なら死んだはどうなのだ?お前の弟、お前の弟だ。そして永遠に失われた少女はどうなのだ?お前の妹、お前の妹だ。それらに哀れを覚えないのか?殺したのは誰だ?本当に哀れまれるべきは、いったい誰で、どちらなのだ?

 その不思議な言葉に、一瞬気をとられた。その間に彼は、大またに進み、騒々しく母の寝室の扉を開ける。彼女はいた。少しやつれたような様子で、それでもこの屋敷の女主人たる風情を保ち、まっすぐに腰掛けている。
「母上、お聞きしたいことがある。」
 慇懃無礼と言う言葉は、まさに今の彼のためにあった。
「なんです、騒々しい。」
「では率直にお聞きしよ「シリウス!」うるさい、黙れ。」
 ぞっとする響き。
「母上、を殺しましたね。」
「兄上!」
 思わず、昔の呼称が出た。
「なにをそんな…!!」
 母が椅子から弾かれたように、立ち上がり、叫ばれた言葉の最後はほとんど悲鳴だった。その表情は、滑稽なほど正直だった。青くなった母親に、兄が白くなる。
「母上…!やはり!あなたは!」
 彼が平手をふりあげ、母が顔を庇うように悲鳴をあげた。ああどうぞ!すがりついた兄の体。ぞっとするほど冷たい。振りおろされない右手は、迷っているからなぞではない。そこに鉄槌の力を、蓄えるためだけに宙空に制止しているのだと僕には感じられて仕方がなかった。
「兄上!やめてください!どうぞもうやめてあげて!」
「違う!違う!そんなはずはない!そんなはずはない!私ではない!私がやったんじゃない!違う!違ううううう!!」
「あなたが命じた!!」
「違う!そうよ!違う!違う!ああそうよ確かに殺した!使い魔はあの小生意気ながきの胸を刺し貫いたはずだそのはずだ!なのにどうして?違う違う違うわたくしでは!!」

「あなたが殺した。」

 喚き合いひとつの団子のように縺れ合った僕たち三人に対して、その言葉はあまりに静かで、異質だった。
 はっと誰もが、入り口を見やる。いつの間に追いついてきたのか、がまっすぐに立っていた。その顔には色はなく、彼もまた、シリウスと同種、それでいてもっと不完全な――やはり天使の兵隊であったのだということを知る。
 先ほどまで叫んでいたのが嘘のようだ。母は兄に腕を捕まれ逃れようと身を捩った姿勢のまま、放心している。兄もまた振り上げた手のひらのことなど忘れたかのように、を見ていた。僕もまた同じ。兄に取り縋ったまま、固まっている。時が静止したようだった。止まってしまった時間の中、彼だけが動いていた。

「剣を磨いたのは僕妖精で、狙いを定めたのもそれを振るったのも彼ら。しかし殺したのはあなた。あなただ。あなたの殺意がを殺した。」

 自分の左胸に手のひらをあてて、が一歩、進み出る。その手のひらに脈打つものはおそらくないのだと、そう思わせた。空っぽの胸で、彼は歩いた。

「そう。あの銀の剣は、確かに僕の胸を貫いた。そうして心臓を、盗られたのです。さあ、返して。僕の心臓を。返しなさい。」
 少年が、もう一歩、幽霊のように前進した。時の呪縛が解ける。母親は重力に従い力の抜けた兄の手から床へ転がり落ちた。そのまま立ち上がろうともせずに、後ずさろうとし、長いドレスに足をとられ、失敗し、もがく。彼女は恐れ、慄き、もはや狂い出さんばかりだった。落ち窪んだ彼女の目が、救いを求めるように室内を見渡す。シリウスはと同種の目で、彼女を見、それにまた悲鳴を上げて彼女は僕を見たが、すぐに耐えられないとでもいうように逸らしてしまった。そのままどうぞ視線を逸らさす助けてと呟いてくれれば。そう思った自分を僕は驚き、そしてどこかとおくから観察している――。彼女は僕の目からも逃れた。そこにやはり、自らの罪を見たから。
 僕はもう動けなかった。
 そうしてぐるぐると回った彼女の、その目が一点で止まる。床を這いながら、彼女はそこへ、逃れようとしている。
 その視線の先。それは床だ。しかしその床板は、一部だけ、真新しい。
 這いながら彼女が呻く。背後から追ってくる天使に。
「お前は誰だ!お前は誰だ!お、お、お!出てお行き生意気なゴーストめ!お前は、お前は…!!」
「そこか。」
 もその視線に気づいた。その目が光る。おやめ!と叫ぶ母を、どこにそんな力を残していたのか、ぐいと押しのけ彼は床板を持ち上げる。その暗闇の中に、小さな壷。彼は憑かれたような瞳で、熱烈にその壷を見やる。そこに確かに、彼の切望するものがある。
「見つけた…!」
 、と小さくその唇が自らの名を呟く。大切なものをおし抱くように、その手で壷を救い上げたは、もはやこの世のものではなかった。その銀の目だ。怪しく光る。
「おおおおおお前は誰だ!」

「私は。」

 その声に、低い声がかぶさって聞こえた。周囲の温度が、ぐんと下がる。
 兄ですら、動けずにいた。ただ母だけが、頭を掻き毟り、叫ぶ。叫ぶ。
「嘘!嘘!嘘おおおおおおお!!!」
「いいや。」
 彼が笑う。その恐ろしい微笑。節つけて彼が歌う。おぞましい旋律。
「私は。あなたの殺した。」
 昼前の空はにわかに雲り出して、窓の外ではびょうびょうと風が吹く。


20090828/薊―――復讐