桜の下には恋人、蓮の下には少女、藤の下には貴婦人が埋まっている。
紫陽花に想い人、水仙にはエコー、沈丁花なら銀の髪。
ではあの朝露に濡れた真紅の薔薇の下には?
――美しい五月の、青ざめた少年が。

  01.夫婦は椿の下
  02.兄弟なら梨の下
  03.背徳の蜜は林檎
  04.懼れは月桂樹の下に
  05.微笑は槿の下
  06.稀人なら時計草の下
  07.枳殻に登るは幽霊
  08.昔話は箒草の下
  09.麝香撫子の下には涙
  10.豌豆の下に眠る僕
  11.白妙菊は項垂れた
  12.使い魔の咲かす芥子
  13.合歓には夜の子供らが
  14.告発者は木蓮の下に
  15.薊の下なら狂気の沙汰
  16.木立瑠璃草は空を飛び
  17.そうして最後に薔薇の下























    



木立瑠璃草は空を飛び
「待て!」
 兄の叫びに、はっと金縛りが解けた。扉をすり抜けるように破って、は走ってゆく。あわてて追いかけた廊下に姿はない。ガランとした回廊。まるで人の、気配がない。
 ――消えてしまった?
 ぞっとした。まさか。本当に。あの少年の形をした少女は。
 一瞬頭の中を、すべてが悪い夢であったのではないかというような、或る意味都合の良い幻想が走る。そんな、そんな馬鹿な。背中をつめたい、汗が伝う。
「どこに消えた!?」
 兄の声ばかり現実的。噫。
 噫。

 おやめください!という使い魔の叫びが、庭から響いた。兄と、僕は、瞬間顔を見合わせると窓から庭へ躍り出た。はしたないとは、誰も言わず。もちろん僕も気にしなかった。シリウスについては、最初から気にするはずもない。庭へ踊りでると、空が明るくて、真っ青。急な光に目が眩む。姿現しはきっとこんな感覚だろうと、どこか遠くで思う。庭には僕妖精たちがわらわらと集まって、頭上を見上げてキイキイ悲鳴を上げている。
 使い魔たちの視線のさき、屋上に彼が、いた。
 遠くともわかる、その顔いっぱいに浮かぶ恍惚の微笑。いつの間にあんなところに移動したのか。するりと彼の首から、真っ黒なリボンタイが解けて風に流れた。真っ白な襟が風にはためく。まっすぐに背筋を伸ばして、は笑っていた。
 後からキチンとドアと通路を抜けて、そうして遅れて現れた、母親が金切り声を上げる。何をする気なの悪魔!
 噫あなたがそれを言うのか。
 ふと笑い出したいような、跪いて胸を掻き毟り、大泣きしたいような、そのまま胸を切り開いて天に向かって懺悔の言葉を叫びだしたいような、心地に襲われる。どうしてこんなにも、心臓が痛い。
 は風に吹かれて、とても美しい様子。その狂気は、祈りに純化されようとしていた。何かをささげるように手のひらに受け、空に差し出すの指先が、わずか震えているのが、僕には見える。それは期待によって震えているのか、恐れからなのか、喜び、哀しみ、せつなさ、憎しみ、愛、苦しみ、どの感情からくる震動なのだろう。
 僕にはわからない。僕にはわからない。だからこそ、彼と話をしたいと思う。すべてすべてが解き明かされた後で、話がしたい。、僕の弟。僕の、僕の。
(!)
 心の中精一杯に叫ぶのに、口が開かない。言葉が出ない。出たとしても言葉は無力だ。だってはこんなに遠い。あんなに高いところで、笑っている。

「我が兄弟の血肉を受けよ。」
 朗々とした声だった。死に身体の一体どこから響くのか。大きく、深々と耳に刺さる、審判の喇叭の声だった。その声でが唄う。罪状でも読み上げる調子。噫それは誰の罪だ?が喉の奥で小さく笑ったのが見えた。
「我が半身の骨を喰らえ。」
 詩でも暗誦するように、言葉は続く。
 けれどもが泣き出しそうなのだと、なぜだかわかった。少なくともそう思えた。
「…泣いてる。」
 思わず呟いた言葉に兄が目を丸くする。は屋上で、優美に微笑んでいる。その手は何かを握り締めている。それがなんなのか、彼も兄もそれから母親も知っていた。それこそ彼の、彼自身の心臓。体から引き離された魂。壺の封印が解かれた。彼はもはや自由。何者からも解き放たれて。
!」
 ようやっと兄が叫ぶ。やはり僕には声も出なかった。あの少年、美しい。そのなんという壮絶さ。
「そうだ、私はを取り戻しにきた!」
 その声、その金剛石の声。いかずちのように、鳴り渡る。誰よりも気高く、誇り持て、その幼き白き横顔の美しさよ。なんとあやしきその性よ。ブラックの血筋。ああ、まっこと気高きブラック家。王なる筋はあまねく続く。その壮絶な、美しさ。
 他人事のように思った。その血が、狂気が、僕にも流れている。それはまるでお伽噺のように、遠い出来事に思われた。

「我が半身を返してもう!」
 張りのある声。まるで死に掛けた人間の、出せる声とはおもわれない。
「夜の女王よ私は幽霊ではない。」
 母親を見下ろして、I’m not a ghoast、と言う声は確かに笑っていた。
「我が片割れの名のみを知れよ、」
 グラリ、とその体が傾く。噫、呻いたのは誰だ。悲鳴を上げたのは?
「我が名は!」
 少年が笑う。そのとどろき渡る声で。チラリとそのときかすかに、彼が僕を見て笑った気がした。それら壮絶な微笑とは違う、幼い微笑。図書室でふと浮かべたような、あどけない微笑み。見間違いだろうか?こんなにも距離が遠い。噫見間違いだったろうか。けれども僕には確かに見えた。がわらった。少女の顔で。
 僕のいもうと。名前も知らない。

!!」
 やっと僕の口から言葉が迸った。それに彼が、少し目を丸くして、やはり確かに微笑んだ。、その名を抱きしめるようにして。

「我はだ!ここにいる!」

 それは誰に対する宣言で、誰にたいする誓いだろう。
 最後にやっと、騒ぎに気づいた父が、執務室から飛び出してきた。見開かれた目。父親に表情がある。それが僕には衝撃だった。焦り、驚愕し、混乱して悲壮な様子。ああその必死な具合は、まさにどこかの父親だ。と呼ぶ声が狼狽しきっている。彼も驚き、悲しむのだと、当たり前のことを初めて僕は知った。オリオン。その空の狩人が突然に等身大に映る。ただの父親だ。子供の凶行に、なすすべもなく取り乱している。
 地上の混乱と、この混沌はどうだ。
 だのには美しい。地上の騒ぎなど、その悲しみ怒り憎しみ驚き恐れすべて遠くして。まるで少年神のよう。研ぎ澄まされた、その諸刃のなんというとげとげとした美しさ。
 父の喉が隣で確かに低く呻いた。誰かの名を呼ぶ。レダ、おお。お前の。それがの、母親の名か。あなたの恋した娘の名か。僕は悟る。彼は恋をしていた。その娘の名。の母。あなたが殺した?
 いいや、いいや。母が殺した使い魔が殺した。いいや。いいや。殺したのは誰だ誰が彼らを追い詰めた?それは私とすずめが言った?いいやちがう。ああそうだとも。それは私。私。私と誰もが手を上げる。
!」
 が手を上げる。それは私。私だと。さようならと手を振るように。何か請うように、彼はその手を伸ばした。宣誓するようにも、ただただ静かに自らの罪かなにかを告発するようにも見えた。私だとが手を上げる。空に飛び上がるように。
 そう、そうだ。彼は確かにそのとき、断罪の天使の羽を持ち。空を、飛んだ。停止せよ、と叫ぶように唱えられた呪文も、まるで聞こえないように。


20090829/木立瑠璃草―――熱望・永久の愛(ヘリオトロープの和名)
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そうして最後に薔薇の下
 は死んだ。
 魔法によって宙で停止した彼が、ゆっくりゆっくりと、見えない誰かに抱えられるように地上に下ろされたときには、その心臓は止まっていた。すっかりボロボロで、むしろいつ破綻しても――いいや、とっくに壊れていてもおかしくはない、壊れていなければおかしい彼の心臓は、すっかり機能していなかった。皮肉なことに心臓を取り戻した途端に、その心臓は止まってしまったのだ。その手のひらに雛鳥に対してするように、たいせつに抱えられた心臓を見ても誰もなにも言わなかった。誰も何も、話さない。まだあの呪文が有効であるかのように、時すらも止まったようだった。
「…?」
 意外なことに、一番に呪縛から解かれたのは僕だった。
 そっと指先で、その頬に触れる。眠ってるみたいだな、と思った。まだ暖かい頬は、しかしやがて瞬く間に冷たくなった。は死んでしまった。誰もが動かない中、僕はそおっとその細すぎる身体を抱え上げようとして、しかし無理だったのでそっと上体を起こし、少しだけだきしめる。の伏せられた睫は、ほんとうにすこやかで、やっぱり眠っているだけのように見える。病気のためか痩せて、少年のような体つきをしていることを無意識に思う。僕の隣にやがて跪いた兄の目が、少し泣いているように見えた。気のせいかもしれない。父は泣いているようだった。僕は振り返らなかったけれど。
 そう。僕は泣かなかった。

 父は少しやつれた。母の髪には一気に霜が降りた。葬式はでなかった。
 兄と、それから使い魔たちと、それきりで弔いをした。
 お墓をつくろうとは誰も言い出さなかった。ただまるで最初から、そうすることがこの世の決まり事であるかのように、僕たちはお弔いをする。そうすることが、おそらく彼がこの家に訪れたときからの約束で、そして僕たちにできる唯一のことであったから。

   ―――だれが少年ころしたの?

 ふと耳の奥、小さな声が問う。それに答えて、私、私だと誰かが答えた。殺したのは私。私。私。誰もが名乗り、手を挙げる。そうして殺された少年自身、墓の中から手をあげて。使い魔もそっと手を上げた。もちろん兄と僕も、暗い庭に一列に並び、そっと手を上げる。それは私だと。
 その死を見たのは私、私。
 するとあらゆる角度から言葉があった。が殺されるその時を見たと。この家の者は誰もが見た。その透明な翼で確かにが空を飛ぶのを。その小さな星が屋根から落っこちるのを。僕もシリウスも、父も母も、庭も、風見鶏も、すべてが見ていた。
 では誰がその血を受けたのか?
 姿の見えない問いかけにすべて答えが返った。
 噫その血を受けたのは私。私。
 囁いたのは庭の薔薇。赤い小さなその花びらの、ひとつでたしかに受けたとそういって、その頬の深紅は血よりも赤い。の血を受けて、そんなにも赤いのだ。
 その答えを受けて、僕たち兄弟が答える。
 ――ではお前を植えよう薔薇を植えよう。
 どこに?
 ――の土の上に。
 お弔いには墓が必要で、墓には墓穴が必要だった。では、誰がお墓を掘るのかい。低い声音で土が訊ねる。ヒヤリと冷たいブラックの土が、なんだか厳かな調子で。
 お墓を掘るのは私。私。
 応えて僕と兄が手を上げた。
 今は真夜中。そっと掘ろう。父と母には内緒で、カストルの城を。墓穴を掘る間、僕たちは魔法を使わなかった。どこからか使い魔の持ってきた、シャベルとつるはしで庭を掘った。庭土はところどころ細かな砂利が混ざって固く、しかし思った以上にすんなりと領土をに明け渡した。夜闇の中、なお暗い穴を見つめて誰かが言う。
 さあ、誰かお祈りを。
 暗い穴が言う。決しておとぎの世界には繋がっていない底のない穴が。
 お祈りをするにあたって、魔法使いに神はない。だから僕たちは、誰に、何に、なんと言って祈ればよいのだろう。少し迷った僕らの上に、再びどこからか言葉が降った。
 ――魔法使いに神はない。それすなわち牧師はいらぬ。牧師はいらぬ。神に祈る言葉もなし。魔法使いに神はない。黒い服だけ着ておいで。
 そう答えて梢が揺れて、啜り泣いた。我々に神様はない。祈る言葉はただ死者のためにだけ持っておいでと。だから僕たちは、特に祈ることもなく弔いを進めた。
 小さな棺を運ぶのは、使い魔たちが引き受けた。彼らは器用に、古い揺り籠見つけ出し、作り直すと小さな棺を組み立てた。それは立派な舟で、家で、棺だった。棺はやはりとても小さく、収められたは、丸くなって眠るみたいな、そんなまぁるい形になった。なんだかとても小さくなって、しかし安定した形。その形がデフォルトのように、は棺に収まっている。魔法を使ってゆっくりと穴の中にゆりかごを下ろした。その間もただ、僕はなんと祈ればいいのかを考えていた。祈りの言葉は見つからない。
 そうして、土を被せるその時に、兄がいちりん、真っ赤な薔薇をぽきりと折った。薔薇の茎から血はでなかったが、棘にひっかけて兄の指から血が出た。誰も、なにも、言わなかった。兄の血はとても、なにか神聖な、エーテルのように見えた。薔薇の茎がそっとそれを舐めとった。やはり誰も、なにも言わず。
 その薔薇はと一緒に埋めた。

 ――おやすみなさいませ。
 使い魔たちが言う。
 おやすみ、おやすみと兄も僕も呟く。
 ――おやすみ。
 口に出してみると、それが一番の祈りの言葉に似ていた。どんな聖書の言葉より、どんな立派な言葉より、おやすみに勝る祈りはないように思われた。おやすみと口の中で繰り返して、僕は弟に胸のなか語りかける。
 おやすみ、。眠れば朝がくるよ、と。君の大嫌いな、真っ暗な夜が明ける。
 いつも僕らは嘘つきだ。常夜の屋敷に眠るなら、朝など来ないに決まってるのに。それでも言わずにいられなかった。おやすみ。眠れば朝が来るよと。
 いよいよ土を被せるそのときになって、彼の荷物は驚くほど少なかった。いいや。たったひとつだった。小さな鞄と、そこに入った白いドレス。それだけ。幽霊が着ていたのと同じ服。だからそれらもと、一緒に埋めた。
 そうしてそれから、僕らの記憶も、彼と一緒に埋めることにする。銀色の記憶を、小瓶に詰めるわけではないけれど、それでも僕たちは、の日々をそこに埋めた。だから今はもう安心して眠ってるに違いない。の秘密は薔薇の下薔薇の下。棘が邪魔して誰にも侵せない。

 では墓守は誰が?

 私。私。問いには答えが。ブラックの森が、薔薇が歌う。私が、と。

 そうして最後の土を被せて、僕らはと永遠にお別れをした。
 はゴーストにはならなかった。一番自分の欲しかった、彼自身をやっと見つけて、にしかわかりえない幸福の中、この世界から離れてしまった。少女の名前は永遠に失われた。しかし兄にも、そして僕にも、その名はわかっていた。わかっていたけれど、僕らは白い小さな石にと彫った。
 ・ブラック。ここに眠る。
 ばかげた文句だ。少年が見ればそういうに違いない。ブラック。なんてジョーク。
 そうしてどこか、遠くの街の、彼の真実の名前の下にこそ、という名の少年が眠っている。黒いドレスに、黒い靴を履き、姉の髪をつけ、姉の名の下に。
 馬鹿馬鹿しい。
 そうして薔薇の下に、は埋まってる。今頃小さな心臓と、白いドレスと、それからブラックの罪を抱いて、少年の形と格好のまま、冷たい冷たい土の下。


 もう彼はあの冷たい微笑を浮かべない。僕はただ思い出す。少年でも少女でもない、天使の兵隊であったという子供。夜の子供。僕のきょうだい。
 今頃どうしているかというと、ただ真っ暗な夜の真上を、待ち焦がれたもうひとつの星と、笑い声上げて星めぐりの歌でも歌いながら、ふたつならんでぐるぐると廻っている。
 そうして残された僕たちは地上にあって、空の星々と同じく、明滅を繰り返している。双子の星のした、地上から離れるその時まで、暗い夜の中にいて、生きながらに死へと巡り続けている。僕たちは子供、夜の子供。眠れない夜にあっておやすみとお祈りを繰り返し、失われた星に見つめられながら。
 真っ暗で冷たい、真夜中の世界で。


20090909/薔薇――(刺)不幸中の幸い
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